100万回でも好きだと言おう 10
十分ほどして女は帰ってきた。
手には定番のコンビニ袋。いつもより少し大き目だ。
「お待たせ」
全身で喜びを表現しているアルが女の膝に抱きつく。
女は笑ってアルの頭を撫でると、迷わず俺と同じ地べたに腰を下ろした。
木に登れる女だ。芝生の上に座ることなど何の躊躇いもないだろう。
「ランチをお持ちしました」
「そんなことだろうと思った。お前はコンビニしか店を知らないのか?」
「他も知ってますよ。マックとか、ミスドとか、吉牛とか」
「・・・かわいそうな奴だな」
「なんで?安くて美味しいですよ?」
心から同情したが、女には理解されなかったようだ。
ガサガサと安っぽいビニール袋の音をさせて出てきたのは手巻き寿司とやらだ。
「えっと。納豆、シーチキン、エビマヨ。どれにします?」
「これは寿司なのか?」
「そうですよ。ほら、ココに書いてあるでしょ?手巻き寿司」
百四十円と書かれた手巻き寿司について解説する女が、呆れを通り越して哀れになってくる。
もういいからと受け取って、適当に開いたら「ああっ」と女が手を伸ばしてきた。
「なにやってるんですか?ここを先に開いたら海苔が巻けませんよ。開く順番があるんです」
「は?面倒だな」
「食べたことないの?」
「ない」
きっぱりと答えたら、信じられないとばかりの視線を向けられる。
「いったいどんな生活してるんですか?もう、世間知らずにもほどがあるっていうか」
「・・・お前にだけは言われたくない」
「貸して。いいですか、まずこの一番のところを開いて」
「俺には俺の食べ方があるんだからいいんだ」
「駄目です。せっかくの海苔が破れちゃったり、御飯がはみ出ちゃったりするんだから」
そう言うと女は俺から手巻き寿司を取りあげて、器用に巻いていった。
世間知らずだと言われたのは久しぶりで、ムッとする。
テニス部の奴らには何かにつけて『世間知らず』と言われたものだったが、
今では遠慮なく俺に言葉をぶつけてくる者など少ない。
あの頃も差し出されたコンビニのおにぎりを前に困惑していると、樺地が横から剥いてくれたものだった。
「ハイ、どうぞ。ちょっと高いエビマヨは跡部さんにあげます」
高いたって百四十円だろうと指摘する気力もなく、俺は手巻き寿司を観察してから口に入れた。
なんとも冷たくて微妙な飯だが、マヨネーズで和えてあるエビは合わないこともない。
奥の深さなど全く感じられない味だったが、女に言ったところで分かるまいと思う。
クンクンと鼻を鳴らすアルは物言いだけに俺たちを見ている。
女は更に湯気の立つ温かそうなおでんを出してきた。
俺の前に箸を置き、それからペットボトルのお茶を並べる。
そして最後に出てきたのは犬用のおやつだった。
「ね、食べさせても大丈夫かな?今日の買い物のなかで、一番の高額商品なんだけど」
コンビニには何でもあるんだなと感心しつつ、
期待に満ちた目をしたアルにお預けを食らわすのも酷いかと内容を確認したうえで許可をした。
「それ、いくらだったんだ?」
「四百八十円」
「はぁ?俺様には百四十円の手巻き寿司だぞ」
「四百八十円の手巻き寿司なんて売ってないですよ。ほら、アル。高いから味わって食べるんだよ」
俺の許可が出るとアルは慎重に匂いを嗅いで、ちゃんと舐めて味見もしてから食べ始めた。
高級なドッグフードに慣れているアルにも庶民の味の洗礼だ。
女は嬉しそうにアルの頭を撫でて「良かったね。美味しいね」と声をかける。
それに満更でもない様子の愛犬に、まぁいいかと思った。
「おでんの大根が美味しいですよ」
「大根は好きじゃない」
「ええっ、もったいない。騙されたと思って食べてみてくださいよ」
「騙されたくないからな」
「本当に美味しいですって!!」
ムキになる女をからかうと面白い。
俺の勝手なのに、いちいち横から口を挟んでくるから、やりこめることになる。
よくよく考えると、コイツと会う時はいつも何かを食っている気がした。
それも庶民的な普段は口にしないものばかり。だから面白い。
広い公園に人は疎らだった。
それでも遠くには犬が走り回っていて、子供の歓声も聞こえている。
初冬にしては暖かい、穏やかな休日の昼。
俺は芝生に腰を下ろし、何の利益にもならない女と昼飯を食っている。
それもコンビニの手巻き寿司とおでんがメニューだ。
少し冷たい風が俺たちの髪を撫でていく。
芝生も舞い、その度におでんを死守しようとする女。
土は近く、空は高くて広い。
そして、青い。
「アル、眠いの?いっぱい遊んだもんね」
やけに懐いたアルが、俺ではなく女の膝に顔を埋めた。
こんなにアルが懐いたのはジロー以来だが、そう考えると通じるものがあるかもしれない。
無邪気なんだ、二人とも。
膝のアルを撫でながら、女は小さく歌を口ずさみはじめた。
ドイツ語で綴られるシューベルトの子守歌。
囁くような歌声に俺は目を閉じる。
今日はこの女に会えて良かった。
素直に、そう思った。
これからアルバイトなのだという女と午後には別れた。
音楽は金がかかる。派遣の仕事だけでは足りずに、休みの日にもバイトをしているのだそうだ。
正社員の職を見つければ生活は安定するが、音楽の道からは遠ざかってしまう。
余裕のない生活をして、そこから音楽の道が開かれるのかと言えば・・・それも難しい。
音楽だけで食べていけるような人間は、ほんの一握りだ。
殆どは消耗戦で、金や気力が尽きた時点で諦めていく厳しい道。
その道を女は歩いている。
別れる時、俺は思わず言った。
「頑張れよ」
「え?」
大きな瞳を見開いた女が、次には弓のような目になった。
困難など感じさせない笑顔で元気に頷く。
「跡部さんも」
「俺?」
思いがけない言葉に訊き返すと、女は風に吹かれる黒髪を抑えて首を僅かに傾けた。
「はじめ・・・少し元気がなさそうだったから。でも大丈夫ですよね」
刹那、言葉を失って。
それから俺も口元をゆるめて、大丈夫だと答えた。
相変わらず、女は何度も振り返る。
何度も何度も振り返って俺に手を振る。
また呼んでくださいね、約束ですよと。
だから俺も姿が見えなくなるまで見送るしかない。
そうじゃないと、振り返った女は落胆するだろう。
ずっと俺が見送っていることを信じて疑っていないようだから。
車に乗り込む前にアルと俺の服についた芝生を掃った。
それでも車内の掃除は免れないだろうが、それも今日はいいだろう。
アルは車に乗っても人待ち顔で、行きと違って窓の外ばかり見ている。
去っていった女の姿を探しているようで、俺も物足りない気持ちになった。
繁華街に向かうという女を車で送ってやってもよかったんだ。
だが女は「駅は直ぐそこだから」と首を振った。
それに安堵していた俺がいる。
ただのサラリーマンが乗るのにポルシェは不釣り合いだ。
いくら鈍いあの女でも、俺の素性に疑問を持つかもしれなかった。
訊ねられたら、どう答えるか。
考え事をしながら運転しているうちに、実家の門が見えてきた。
家には上がらずに玄関先で繋いだリードを使用人に渡すと
おとなしく従うアルが俺を見上げる。
じゃあなと体を撫でてやると尻尾のあたりに芝がついていて笑みが零れた。
その時だ。アルが甘えるように細く喉を鳴らした。
向けられた瞳に一瞬胸が突かれる。
黒く澄んだ瞳が、ただ俺を恋しがっていた。
「で、突然の如くにアルフォンスがおるわけや」
勝手に人の冷蔵庫を開けた忍足が、ビール片手に訊いてくる。
久々に会う忍足に警戒しているアルの背を撫でながら、俺は溜息をついた。
「家にいる時間が少ないからと思って実家に置いてきていたんだが・・・ついな
どっちにしても世話をするのは誰かに頼むんだから一緒だろう」
「こんなんでも、やっぱりご主人様が一番か。いやぁ、泣けるな」
「こんなのでもは余計だ」
近付いてきた忍足に渡された缶ビールを手に、クリニックの契約更新の書類を確認する。
その間も腰を落ち着けない忍足がダイニングテーブルの上に放っておいたファイルに目を留めた。
「またお見合いか?おお、すごいとこのお嬢さんや」
「勝手に見るな。あと公になるまで他言はするな。絶対だ」
「え?まさか結婚が決まったんか?」
「そうらしいな。俺はまだ会ってもないが」
「そうか・・・」
あとは俺が紙を捲る音だけが響き、忍足は何も言わない。
今さら忍足の表情を確かめる気もなかった。
書類に不備がないことを確認し、俺のサインと印鑑を押す。
他のテナントは全て会社との契約になっているが、忍足のクリニックだけは俺との個人契約だ。
つまりは俺が所有している一室を忍足に貸しているような格好になっている。
それによって他のテナントより格安で貸すことができていた。
突然、室内にオペラが鳴り響く。
驚いて飛び上ったアルが足元をぐるぐると回り、俺も顔をあげた。
忍足がステレオの前でリモコンを操作したらしい。
「勝手に触るなと」
「あのコの声、綺麗やったな」
唐突だったが忍足の言う『あのコ』が誰を指すのか、俺は直ぐに理解した。
「プロと比べたら全然なんやろうけど、俺には充分やった
歌うのが純粋に好きなんやって、素人の俺にも伝わったんやから大したもんやろ?」
「それが・・どうした」
「自分に正直に生きるって最高の幸せやと思わへんか?
俺らがテニスコートに立ってた時と同じや。それが眩しくて、うらやましくてな」
俺は忍足の背を睨みつけ、手にした契約書をテーブルの上に放った。
「戻れやしない。分かっているだろ?」
そこで忍足は振り返り、俺に肩をすくめて見せた。
100万回でも好きだと言おう 10
2009/02/15
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