100万回でも好きだと言おう 14
生まれた時から、俺は跡部家の後継ぎだった。
巨大なグループ企業創業者の直系として、物心ついた時から家を継ぐためだけの教育を受けてきた。
忙しい両親は留守がちで、優秀な教育者として選ばれた他人の中で育つ。
評価は常に『跡部家を継ぐ人間として合格か』が重要で、
俺自身の資質や個性などは取るに足らないことだ。
食べ物から始まって、服や玩具、本までも、選ばれた物しか渡されなかった。
友達でさえ跡部家に相応しい相手であるかが厳しく吟味され、選ばれた者だけが俺に『友達』だと与えられた。
理想の後継ぎとして成長すれば、それでいい。
はみでたところは徹底的に矯正する。
俺は大勢の研究者によって作られるロボットのようにして育った。
そんな中で出会ったのがテニスだ。
テニスは生まれも育ちも、俺が何者であるかも関係ない。
実力が全てであり、その中でこそ俺の存在に価値があった。
跡部の家に選ばれたのではない、個性的なメンバーたち。
特に忍足は関西からテニスの才能で引き抜かれてきた男で、家柄も何も関係ない奴だった。
俺に遠慮もなく意見する宍戸や滝、屈託ないジロー。
そしてあのテニス部は俺がいたからこそ全国制覇を狙えるだけのチームになった。
あの時間が、俺のすべてだった。
欲しかった。
俺という存在がなくてはならない場所が。
誰かに激しく必要とされ、俺のすべてで応えたい。
俺じゃないと駄目だと言ってくれる、何かに。誰かに。
テニスコートに立っていた頃のように、もう一度と。
俺は切実に探していたんだ。
古い教会にはの歌うアヴェ・マリアが響いていた。
光りが彼女を包む。
澄んだ声は窓から射しこむ輝きに溶けて天上に放たれていく。
ボランティアだが歌を依頼されたのだと嬉しそうに笑った。
一枚しか持っていないのだという白いドレスは、柔らかな光りのもとで見る方が似合っている。
俺は入り口近くの古びた壁に背を預け、素直な歌声に耳を傾けた。
「どうでした?」
「狭くて埃っぽい教会だったな」
「そうじゃなくて、歌ですよ。歌
馴染みのある曲の方が分かりやすいかと思ったんですけど、どうでした?」
車に慣れない様子のが大荷物を手に乗り込むと直ぐに訊いてくる。
シートベルトを探す姿に苦笑いを浮かべ、俺は愛車のアクセルを踏んだ。
訊ねられたら答える気持ちでポルシェに乗せた。
なのに車になど興味のないには『高そうな外国の車』にしか認識されなかった。
ローンが大変でしょうと返済の心配までされ、俺がローンなど組むかと言い返しても信じない。
俺は何ひとつ真実を告げないまま、こうやっての傍にいる。
好きだと告白されて、その答えも返していない。
俺が派遣先の社長であることも、近々婚約を控えていることも、何ひとつ。
は答えを求めなかった。
ただ、また会いたいとだけ言う。
はっきりとした線引きもないままに、
俺たちは連絡を取りあい、時々こうやって会う。
男として体には触れない。
唇にさえ触れず、笑ってる彼女の顔ばかりを見ている。
「食べないんですか?」
「ん?ああ。あまりな食べっぷりを前に食欲が削がれた」
「ええ、そんなに?歌うとお腹が空くんですよねぇ」
海の見えるレストランをは少女のように喜んだ。
とりたて料理に特徴があるわけでもないが、ロケーションを気にいっている。
海を見ながら独りで考え事するための場所に、初めて人を連れてきた。
大きく開かれた窓からの日差しとの笑顔が一緒になって、俺は眩しさに目を細める。
「私・・・今度コンクールを受けてみようかと思って」
「コンクール?」
「一位になると留学させて貰えるんですって。もちろん、タダ!スゴイでしょう?」
「そりゃスゴイが・・・」
お前の実力でトップが狙えるのか?
音楽もテニスと同様で実力の世界だ。
歌うのが好きというだけのに、コンクールで上を目指す貪欲さがあるようには見えない。
「親に言われて」
「親?」
さっきまで忙しなく動いていたフォークを持つ手が止まった。
は目を伏せて少なくなったパスタ皿を見つめる。
「もういい加減に帰っておいでって。田舎に帰って音楽教師にでもなって欲しいみたい」
「なるほどな」
「地方から東京の音大に行かせてもらうだけでも大変なお金を出してもらったし
更に勉強したいからって、ちゃんと就職しないで派遣になっちゃったし
なんかもう帰ってこい帰ってこいって、うるさくて」
「それで留学か」
そんな動機では無理だろうと思う。
強い信念と努力なくして、コンクールの優勝がつかめるほど甘い世界じゃないはずだ。
俺は溜息をつくとに聞いた。
「お前、留学して何をするんだ?」
「へ?歌の勉強するんですよ」
「勉強して?」
「勉強して・・・もっと上手に歌います」
「もっと上手に歌って。それから?」
「えっと・・・楽しいな?」
最後は疑問形で答えが戻ってきた。
変な質問をすると分かっていないような表情だ。
「お前の夢はなんだ?」
それにはがパッと笑顔を咲かせた。
迷わなかった答えに俺は唖然とするのだが。
「自分の子供に子守唄を聴かせることですよ」
笑ってしまった。
自信満々に答えたのが『我が子に子守唄』では、留学の必要がないだろうに。
俺は手を振ると言ってやる。
「コンクールは無理だ。無駄に傷つくから止めておけ」
「なんで」
「理由も分からないんじゃ、余計に無理だ。馬鹿」
「馬鹿って、酷い」
「さっさと田舎に帰って子供の父親でも探すんだな」
軽く言ったはずなのに、その言葉が胸の奥に小さな痛みをもたらす。
深く考えなかっただろうが頬をふくらませて拗ねているのが幸いだ。
コイツはいつか平凡な結婚をして、温かな家庭を築く女だろう。
小さな手で幸せを守り、優しい歌声で生まれたきた子供を祝福する。
有名にはなれなかったとしても、何より大切なものを未来に掴むだろう人間だ。
そして、それは俺には決して掴めない夢。
「幸せな奴だな、お前」
俺の呟きに、は不思議そうに首を傾けた。
長い時間を他愛ない話をして過ごし、雲行きが怪しくなるのを窓ガラス越しに見ていた。
青かった海が、空と一体化して曇った色に変化していくのを眺める。
時は確実に過ぎ、色を変えていくのを目の当たりにした。
「雨が降る。帰ろう」
俺の言葉を恐れていただろうの瞳が揺れる。
もう少しと言いたげな唇から目を逸らし、俺は会計を手にすると立ち上がった。
レジに来ると割り勘にするとが言い張るから喧嘩になる。
出して貰って当たり前の女しか知らないから、かたくなに半額を出そうとする姿勢には参った。
挙句の果てには「車のローンもあるのに」などと言われ、大きなお世話だと怒りながらも笑ってしまった。
そんなものローンも組まずに一括で払ったのだが、余程の借金を背負っていると思われているらしい。
大きな瞳を瞬かせて俺の心配をしている姿が可愛らしくて、つい笑みが零れる。
だから、いけない。
店の外に出て雨が降り出しているのを見たら、自然と手が伸びていた。
俺はの手を握り、小雨の中を車に向かって走り出す。
僅かな距離を走りドアを開けるまでの間も繋いだ手。
の手は小さく震えていた。
車の中はワイパーの音と屋根を打つ雨音だけ。
クラシックでも流してやればいいのだが、今ハンドルから手を離したらに触れてしまいそうだった。
手を握っただけで、は口をつぐんで俯いてしまったままだ。
さりげなく見た横顔は黒髪に隠れていたが、のぞく耳が赤く染まっている。
良かったと思う。
こんな気持ちで、あの大きく澄んだ瞳に見つめられたら危なかった。
一時の感情で奪ってしまったら、きっと後悔する。
「あ・・・海が見えなくなっちゃう」
ふいに名残惜しそうに呟かれた声さえ、俺には甘く聞こえた。
アルの背を撫でながら降り続く雨を眺めていたら、電話がかかってきた。
溜息をつきながらも無視できないのは、きっと待っているからだ。
洗いたての髪を苛立ちのままにかきあげて携帯を確認すると
そこには忍足の名前が浮かんでいた。
「なんだ?」
『俺や。元気かぁ』
「まぁまぁだ」
俺の足元でアルが相手を知ろうと落ち着かない。
視線だけで『じゃない』と教えてやると、アルはつまらなそうに伏せてしまった。
『結婚は決まったか?』
「そんなことを知りたくて電話してきたのか?暇人も極めたりだな」
いつもなら直ぐに切り返してくる忍足が一呼吸を置いた。
様子が違うと思った時、奴の耳触りのよい声が鼓膜に重く響いてきた。
『あのコには下手に近付かんほうがええんやないか?』
「お前に勘ぐられる様な関係はない」
動揺が悟られてないだろうか。
意識して息を吐き、冷静な声を保つ。
『泣かすようなことになったら後悔するんは跡部やで』
「だから何も」
『ちゃんがジブンに惚れてんの知ってるんやろ?
知ってて会ってるんは誰や?既にお前らしくない』
どこで見られたんだ。
それともアイツはペラペラと忍足に事の成り行きを報告してるってわけか?
「俺が誰と会おうとお前には関係ないだろ」
冷たく吐き捨てれば、呆れた様な溜息と共に『やっぱり』と忍足が呟いた。
その声に鎌をかけられたのだと気付いても遅い。
俺の舌打ちに、忍足はたたみかけてくる。
『あのコって言うただけで、ちゃんを思い浮かべるほど付き合うてるんやろ?
ちゃんが跡部に惹かれてることなんて、クリニックに呼んだ日に分かってた
元はといえば俺が花束なんかをお前に頼んだのが原因や
せやから俺が言う。悪いことは言わん。あのコはやめとけ』
忍足は一気に言うと、気まずげに黙り込んだ。
俺に意見してくる数少ない友人は、跡部の家が選んだのじゃない。
俺が必要として、俺も必要とされて、そうやって繋いできた。
そう思えば諦めたように口元が緩んだ。
「忍足。お前、自分が言ったこと覚えているか?
あまりに無垢で美しいものに手を伸ばすのは怖いってやつだ」
『ん?ああ。言うたな』
「俺はな、無垢で美しいからこそ手を伸ばしてみたくなった
眩しいからこそ見たい。自分がどうなるか分からないから試してみたい」
『呆れたチャレンジャー精神や』
「そうだな」
携帯の向こうで忍足が笑う。
『で?チャレンジしてみて、どうやった?』
窓の外の雨音が激しくなる。
触れた手は温かくて、指先は荒れていても柔らかかった。
「どうしようもないさ。どうしていいかも分からない
手にはできないと分かっているのに欲しくなって、気が狂いそうだ」
あ〜と忍足が間抜けな声を出した。
なにかと思えば、そのままの声色で言葉が続く。
『あかん、もう手遅れや
なんで今さら本気で誰かを好きになるんや、アホ』
そうか。そうだな。
なんであんな女に心を動かされちまったのか。
アホだと呼ばれても仕方がないさ。
これが人を好きになることなのだと、今ごろ知ったのだから。
なぜか優しく聞こえる忍足の罵る声に、俺は笑うしかなかった。
100万回でも好きだと言おう 14
2009/03/09
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