100万回でも好きだと言おう 15
都心の夜景が一望できるレストランで、帰国した婚約者と食事をした。
パートナーとして選ばれた『跡部グループ』は慌ただしく動き始めている。
まだ正式に約束を取り交わしたわけではないが、
こうやって向かい合い食事をしているのだから『結婚』は間違いないのだろう。
特に父親は喜びを隠さず、結婚が決まれば親会社の経営にも加わらせてやると言った。
それは本格的に俺が世襲のための足固めに入るということだ。
結婚する相手のパックが大きいぶん反対する役員の口も塞げるという算段だろうが、
俺としては軌道に乗ってきた今の小会社から勝手に引き抜かれるなど迷惑な話だった。
それにしても今日の彼女はおとなしい。
初めて顔を合わせた時はハキハキと話す印象だったが、今夜は無駄話もせず静かにナイフとフォークを動かしている。
何が気にいらないのか。
ビジネスだと割り切ればご機嫌の一つでも取ってやらないでもないが、
これから先を共に暮らすであろう人間の我儘にまで付き合えないし、そんな気力もない。
結婚前から倦怠期の夫婦さながらの会話もないディナーになってしまった。
突然だった。
黙々と手を動かしていた彼女の声を聞く。
「私・・・好きな人がいますの」
久しぶりに聞いたであろう声は思いのほか低く掠れていた。
さすがの俺も一度は我が耳を疑い、グラスのワインを飲む手が止まった。
「渡米していたのは好きな人に会うため。それでも私と結婚なさる?」
皿に落としたままの彼女の視線。
室内の明かりに耳元のダイヤモンドが小さく煌き、まるで信号でも送っているかのようだ。
俺は飲みかけたワインを口にすると、ゆっくり味わってから答えた。
「必要であれば」
愛など、この結婚に求めていない。
それは個人として幸せなものではないだろうが、グループの繁栄には必要なものになる。
俺の答えを聞いて思わずというふうに笑った彼女はグラスを手に取って顔を上げた。
「そう言うと思った。あなたは?誰か好きな人はいらっしゃらないの?」
「・・・特には」
「秘密主義ね」
「あなたが開けっ広げすぎるのでは?」
彼女は楽しそうに笑うとグラスの赤を見つめて言った。
「さっきのは全て嘘です。忘れてください」
ふざけたように掲げたグラスの向こうに見えた彼女の瞳が、耳元のダイヤモンドと同じように煌めいている。
水を湛えているだろう瞳には気付かないふりで、俺は彼女のグラスに軽く自分のグラスを合わせてやった。
真実でも嘘でも構わない。
どうせ籠の鳥は逃げられはしないのだから。
それから後の彼女は以前の印象のままに、よく話をした。
知的で自己コントロールもうまい。社交性にも問題ないようだ。
トップに立つ人間の妻として理想的に育てられている彼女と俺は、ある意味お似合いなのだろう。
人並みの幸せには遠くてもだが。
彼女と別れ、帰りの車で私用の携帯を開く。
いくつかのメールに混じって、絵文字の件名が目に留まった。
からだ。
夕方に届いていたメールは、会社からバイトに向かう途中に打たれたものだろう。
『今日はこれから友達の代打でケーキ屋さんのバイトです。
友達が言うには残ったケーキが持ち帰れるらしいので、すごく楽しみ
イチゴのケーキが売れないで残ってて欲しいなぁ。お店的にはマズイだろうけど。
できるだけ色々な種類の美味しいケーキが残っていること(だって今晩の夕飯にするつもり)を祈りつつ
ヘマをしないよう頑張ってきます(カンタービレ♪)』
どう考えても健康には良くなさそうだが、本人は楽しそうだ。
昨日のことだった。
俺は偶然に社内で仕事をしているを見かけた。
四階のフロアにいると思い込んでいたから、別の階での後姿を見つけた時の俺は自分でも驚くほどに狼狽した。
誰に頼まれたのか段ボールを抱えた小さな体は頼りない。
それでも同僚と屈託なく笑いながらエレベーターに乗り込む姿を俺は息をつめて見つめていた。
いつもならのほうが俺を見つけてしまうのに、とうとう俺が見つけられるようになってしまった。
そして気付くんだ。
見つけてしまうのは探しているからだ。
離れた場所からでも、他に似たような背格好の人間がいたとしても、
会いたいと探していたら・・・見つけてしまう。
ただの「女」が、いつの間にか「」という名を持った。
『ケーキもいいが、ちゃんとした物を食ってるのか?』
俺は簡単な返信をして携帯を閉じた。
すると速攻で胸の携帯が震えはじめる。
ちゃんと働いているのかと苦笑いをして携帯を開くと予想通りの人物だった。
『聞いてください〜
ケーキが残ってないんです!!ひどいっ』
クッと笑いが漏れて、バックミラー越しに俺を窺うドライバーの気配を感じる。
俺は湧いてくる笑みを噛み殺し、返信を打つ。
『そりゃ良かった、店としては万々歳だろうぜ。もう仕事は終わったのか?』
送信すると直ぐに携帯が着信を知らせる。
メールの早打ちが特技らしい。そんな発見も可笑しくて、俺は肩をゆらす。
『今、ロッカーで悔し涙を流していたところです。空腹でお腹と背中がくっつきそう』
この後の俺に予定はない。
返信をしようとした手が止まった。
もう会わないほうがいい、会えば後に悲しませることになる。
距離が近づけば近づくほど、お互いの傷が深くなる。
返信を待たず、続けてメールが届く。
手のひらで震える携帯を開き、今度こそ笑みが隠せない。
『跡部さんも空腹だったらいいな』
空腹だと答えたなら、きっと直ぐに安っぽい夕食を提案するのだろう。
俺が渋っても諦めずに、ふたりで食べると美味しいのだと説得するんだ。
嫌々な同意にも大喜びで、どんなに待たせたとしても嬉しそうに手を振る。
俺を見つけた時に咲かせる笑顔。
嬉しくて嬉しくて仕方ない。そんな、お前が見たい。
返信をキャンセルして、ボタンを押すと携帯を耳にあてた。
ワンコールで出る弾んだ声。
『もしもし?跡部さん?』
「お前、どこにいるんだ?」
この感情に逆らえるはずがないじゃないか。
車窓から夜空を見上げながら声を聞く。
俺の頭上には、半分をビルに隠されてしまった不完全な月が輝いていた。
100万回でも好きだと言おう 15
2009/03/23
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