100万回でも好きだと言おう 18 












日常は人の心など置き去りにして淡々と過ぎていく。
世の中の人間と同じ二十四時間が与えられているのか分からなくなるほどに時間がすぎるのが早い。


それで良かった。
時間があると蹲った小さな姿が頭を掠めて堪らない気持ちになる。
俺は仕事に没頭することで、どうしようもない感情から逃れようとしていた。



そして、僅かに空いた時間。
俺はアルを連れて跡部の家に戻った。



「よろしく頼む」
「かしこまりました」



古くから仕えている執事にアルのリードを渡す。
俺は不思議そうな目をしているアルの前に跪き、目線を合わせると柔らかな頬を包んだ。



「アル、またここで暮らすんだ。ここなら人も多い、広い庭もある」



ここ最近の俺は夜の日課になっていたアルの散歩も滞りがちになっていた。
深夜に帰ってくると玄関に行儀よく座っているアルが居て、ずっと俺を待っていたのかと思うと可哀想になる。
世話は人を雇って頼んでいても、結局は長い時間を独りで過ごすアルのことを思うと不憫で、
俺はアルを跡部の家に戻すことを決めた。



「また会いに来るから」



話していることを理解するかのごとく、アルの黒い瞳は逸らされることなく俺を映す。
真っ直ぐ見つめられることに耐えられなくなり、俺はアルの頭を撫でると立ち上がった。



「じゃあな」



背を向けて一歩を踏み出した途端、アルが激しく吠えた。
玄関ホールに響く声に思わず振り返れば、引っ張られるリードに抗いながら俺を追おうとしているアルの姿があった。
何度も何度もアルが吠える。


躾を厳しくされて育ったアルが人間の制止もきかずに吠えて暴れていた。
傍にいたメイドたちまでが体を押さえようとするのにアルはやめない。
取り乱しているのに瞳だけは澄んだまま。
黒い瞳に俺を捉えてアルが吠える。



「アル・・・」



手を伸ばせば、引っ張られた首を闇雲に振ってアルは俺の腕に飛び込んできた。
図体のデカい仔犬のように俺の体に抱きつき、鼻を擦り寄せて顔中を舐めてくる。



「コラ、お前」



尻もちをつきそうになりながら背中を撫でてやると甘えた声で更に頭を擦りつけてきた。
執事が緩めたリードを手に近付いてくる。そして、さっき渡したばかりのリードを俺の前に差し出すと微笑んだ。



「どうぞ連れ帰ってやって下さい。どんなに寂しくても景吾様のお傍にいるのが幸せなのです」



しかし、ここで連れ帰っても不憫なことには変わりない。
置いていけば、一時は寂しくても直ぐに此処の生活に慣れてくれるだろう。
やはり手のある邸の方がアルにとっては幸せな気がする。



「いや、やっぱり・・・」



坊ちゃんと懐かしい呼び名で執事に呼ばれた。
俺が病気をするたびに、ずっとベッド脇に座っていてくれた執事だ。



「自分の思う幸せが、他にとっても幸せだとは限りません
 優しさも、望まぬものには残酷でしかないことがあります
 アルフォンスは坊ちゃんのお傍にいるのが幸せだと申しております」



彼は歳をとった。
黒髪は白くなり、目じりのしわも深くなった。
父親の言いなりだと反感を抱いたこともあったし、いつも監視されているようで息苦しかった。
だが・・・ずっとこの邸で俺の帰りを待っていたのが彼だ。



「坊ちゃんのためだと思ってしてきたことも・・・同じであったかもしれません」



そう言って、執事がリードを差し出したまま頭を下げた。


思いもしない言葉だった。
いつもいつも『坊ちゃんのためです』と憤る俺を宥めてきた人間が頭を垂れている。



「俺はお前が望んだような人間になったか?」



執事に問う。
彼は老いた顔をあげ、穏やかに微笑む。



「充分過ぎるほどでございます」



俺は小さく笑って、彼の言葉と共にアルのリードを受け取った。





あれからアルは吠えない。暴れもしない。
いつもと変わらず黙って俺を待っている。
帰ってくると後ろをつきまわり、丸い瞳に喜びを溢れさせて俺を見上げる。



「悪かったな、遅くなって」



ジッと見つめてくるアルの瞳に穏やかな光りを見つけるたび、許されているのを感じるのは俺の願望だろうか。
俺はアルを寝室に入れ、足元で丸くなるのを確認してから目を閉じるのが日課になっていった。





時に俺はミカン畑から見上げる夜空の夢を見る。
実際には行ったこともないミカン畑。
夜空に輝く星は都会のそれで、俺はこれは夢なんだと思いながら見上げている。


優しい歌声がする。あれはの歌声だ。
きっと子守唄を歌っているのだろうと思い耳をすませる。



アイツは・・・どこだ?



目覚めた夜明け。
俺は言い様のない喪失感を耐えるしかなかった。










婚約が正式に発表された。


さすがに新聞には載らなかったが、経済誌にはグループの合併話と共に婚約の事実が語られている。
が経済誌に目を通しているかはあやしいが、一般の社員の間で噂になれば自然と耳にも入るだろう。


俺は引き返せないレールの上で少しだけ後ろを振り返っている気持ちになる。
という女と知り合ったのは事故のようなものだったのかもしれない。


突然で避けられもせず、負った傷は時間をかけて癒すしかない。
日常が俺の中から熱を奪っていくのを痛みに耐えながら待っている。


だが、オフィスのエレベーターが開くたびに息をつめてしまう俺がいた。
コンビニの前を通ると良く似た背中を探し、大きな靴音には振り返る。
人混みの中では『跡部さん』と呼ばれた気がして足が止まった。



遅い本気の恋は厄介だと忍足が笑ったが、まったく・・・その通りだった。


真実を知って拒否されたのなら諦めもついただろう。
傷つけたくないと遠ざけた想いは、傍にいたいと願ったには残酷な優しさだったんだ。
重ねた唇の熱を忘れることもできない俺は、ただの臆病な大馬鹿野郎だ。





「・・・酷い顔や」



そう呟いた白衣姿の忍足は、クリーム色のカップにインスタントのコーヒーを淹れて診察室の机に置いた。
俺はカップの隣に白い封筒を置く。



「小切手だ。それと幾つかの音楽院の案内
 コンクールが駄目だった時は、お前からこれを渡してやってくれ」



黙って白い封筒を見つめた忍足が、溜息をついて事務椅子に腰を下ろした。
忍足の持つマグカップから白い湯気がゆったりと昇っていく。



「分かった。預かる」
「・・・頼む」


「今のお前の顔見たら断るなんて無理やろ」
「そうか」



俺たちの間に沈黙が落ちる。
この歳になって自分の生き方に疑問を抱いているなど忍足にだって話せはしない。
もっと若くに気付けば別の選択もあったかもしれないと、今更に諦めていた自分の不甲斐無さを責めている。



「会いたいか?」



忍足が患者にでも問いかけるように訊いてきた。
診察室で向かい合い、俺は口の端を僅かにつり上げる。



「会えない」



真っ直ぐなは俺を許さないだろう。
嘘つきで、真実など無かった男。恨みこそしても、会いたいなど願うはずもない。



「お前、口だけは達者だからな。アイツが諦めないですむように道を作ってやってくれ」



俺が席を立つと、忍足は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。



「本当に大事なことを言葉にせんのはお前の悪い癖や」
「まったくだな」



俺は軽く手を振り、診察室を出る。
きっと忍足が上手くやってくれると思えば、少しだけ気が楽になるはずだった。
それがどうだ。


もっと胸が重くなった。





コンクールの結果を気にしながら数日が過ぎた。
忍足のことだから頼まなくても結果を知らせてくるだろう。
携帯の着信を確認するたび、忍足の名前と一緒に探してしまうのはの名前。


別れを告げた日からメールも電話もない。
ふっておいて連絡を待っているなんて笑えない話だと思う。


は知らない。
俺がどんなに愛しいと思っていたかなど・・・知るはずもなかった。





『今、家に居るか?話したいことがあるんやけど』



出先から帰る途中の車内で忍足からメールが来た。
話すことといえばのことしか思いつかなかった俺は、オフィスには戻らず自宅へ帰ることにした。



『二十分ぐらいでマンションにつく』
『ほな、下で待ってる』



そんな遣り取りをして窓の外を見れば、この冬最初の雪が舞っていた。



秘書が見送ろうとするのも断って車を降りた。
背中で去っていくエンジン音を聞きながら、コートの襟を直してエントランスに向かう。
柔らかなオレンジ色に照らされるガラスのエントランスに映る小さな影。



待っているはずの忍足ではない。



「おかえりなさい、跡部さん」



そう言って微笑んだのは、ガーベラの花束を抱いただった。




















100万回でも好きだと言おう 18 

2009/04/07




















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