
「おかえりなさいませ。」
深々と頭を下げた片岡の前を無言で通り過ぎる。
目の前を視界にも入ってないかのように過ぎていく景吾の背中を見送って、
片岡は追うこともできず立ち尽くしていた。
数メートル先に進んだ景吾がふいに振り返える。
「おい。何してんだ?行くぞ。」
「専務・・・」
「俺にはやるべきことがある。」
強い光を宿した瞳を見て、片岡は景吾の覚悟を理解した。
ならば、自分の進むべき道も決めよう。
片岡も覚悟を決めて、景吾の後ろについた。
車の中。景吾がいない間に行われた事すべてを告げた。
景吾は彼女の残した合鍵と指輪・・・
そして片岡が拾った診察券を握り締めて窓の外を睨んでいる。
「最後まで・・・妊娠していることについては口にされませんでした。
ただ、笑って。私に『ありがとうございました』と頭を下げられて。
心の綺麗な方を・・・傷つけてしまった。」
言葉を詰まらせた片岡。
景吾には、片岡に見せたの笑顔が見なくても分かる気がした。
きっと穏やかな・・・労わるような目で片岡を見ただろう。
慈悲のような思いで、片岡に微笑んだろう。
は、そういう女だから。
自分の痛みは自分だけで背負い。他人の痛みまで自分で背負おうとする。
彼女のことだ。子供は絶対・・・まだの中で育っているはずだ。
そう信じて、景吾は診察券の切れ端をぐっと握った。
景吾は本社につくと、まっすぐ社長室に向かう。
が、不在だった。
途中ですれ違った幹部達が軽く会釈だけをして、そそくさと景吾を避けていく。
それをいたたまれない思いで見ていた片岡だが、
当の景吾が堂々としているので落ち着いてきた。
社長室にアポを取り、景吾を対面させるのが今の仕事だ。
「専務。つかまりました。今日はご夫婦で会長の米寿祝いのご挨拶に行かれたようです。」
「よし、行くぞ。」
「会長宅に乗り込むのですか?」
「・・・当然だ。夫婦でいるなら都合がいい。おまけに会長までいるんだろ?好都合だ。」
「・・・分かりました。」
溜息交じりの声を出して車の手配をする片岡は、景吾に背を向けてから口元を緩めた。
自信満々で笑顔さえ浮かべている景吾を見て・・・
この方ならすべてを自分の力で乗り越えられると確信したからだ。
会長宅に乗り込んだ、景吾。
片岡ができるのは、ここまでだ。
「私は大事な方を迎えに行く準備をしておきます。」
玄関に上がった景吾の背中に片岡が声をかけた。
「頼む。」
片岡は深々と頭を下げて、景吾の成功を祈った。
通された奥の部屋は会長のプライベートに使う部屋だ。
息子夫婦なので、そちらに通したのだろう。
「景吾様がいらっしゃいました。」
「入るがいい。」
しわがれた祖父の声がして障子が開けられる。
そこには難しい顔をした父と久しぶりに見た母、そして祖父の会長がいた。
景吾は入ってすぐに手を突いて頭を下げた。
「お健やかにめでたく米寿を迎えられましたとのこと、心よりお祝い申し上げます。」
「ありがとう。しかし・・・それを言うために訪ねて来たのではあるまい?
専務が言うことを聞かんと・・・社長が嘆いているようだが?」
「ご心配をおかけて申し訳ありません。しかし、私にも譲れないものがあります。」
「景吾っ、ここで話すことではない!」
「いいではないか。ここには身内しかおらん。景吾、自分の考えを述べてみよ。」
「私は愛情のない夫婦の間に生まれて・・・」
「なにっ!?」
「社長。口を挟まず聞きなさい。続けよ、景吾。」
祖父の言葉に、社長が黙り込んだ。
「愛された記億もないままに育ちました。両親の関心は成績だけ。
ただ、跡部の跡継ぎとして恥じない人間になれ・・・と。
だが、この家に生まれたらそれが当然なのだと思っていました。
期待に応えようと努力もしてきた。 でも、いつも何かが足りない。
どんなに成功しても、どんなに周囲に認められても・・・自分の中に空洞がある。
そんな気がしていました。
そして・・・その足りないものを見つけた。
それが、愛する人。俺を・・・愛してくれる人だった。」
「景吾。いい加減にしろ。お前は、愛や恋などで動ける立場の人間ではないと・・・
何度言ったら分かるんだっ」
「グループの発展のためだけに結婚して、誰が幸せになるんですか?」
「個人の幸せなど・・・億単位の社員を抱える企業のトップに必要ないっ!
甘いことを言うなっ」
「いいではないですか。」
結局父親と言い争いになってしまったところで、ずっと黙り込んでいた母が口を挟んだ。
母は少し目を伏せて。それでも、しっかりとした口調で続けた。
「景吾は愛した人と結婚なさい。」
「お前まで何を言っているんだ?」
「私たちは企業と企業を繋ぐことは出来たけれど。
夫婦として、心を繋ぐことが出来なかった。 あなたにも愛した人がいたでしょう?
あの人と結婚していたら・・・きっと幸せな時間を得られたと思わない?」
「なにを・・・」
「私だってそうです。好きな人がいた。けれど・・・生きる世界が違うからと諦めて。
今でも・・・後悔している。
可哀相に、景吾が一番の被害者ね。
いい訳だけれど、景吾に愛情がなかったわけではないの。
自分のたった一人の息子だもの。あなたには、幸せになって欲しい。
企業のトップだって人間です。幸せを望んで何が悪いんですか?」
最後は凛として、夫に向かってはっきりと言った母は綺麗な顔をしていた。
しん・・・と部屋が静まり返る。
遠くでウグイスの鳴き声が聞こえた。
「ふむ。では、サンの件はどうするつもりだ?
個人の幸せも良いが・・・企業全体に及ぶ不利益をどうする?」
会長の声に、時間が再び動き出した。
「サンが手を引くのなら、それでもいい。
サンが日本一なら、世界一と手を組めばすむことです。」
「ほほぅ。何かあてがあるのかな?」
「もちろんです。NYでR社の社長とお話が出来ています。
まだ、私と社長の間だけの話ですが・・・進めるなら全力でまとめてみせます。」
「それは・・・願ってもない話。確か、あそこの社長は無類のテニス好きだったが。
その関係か?」
「はい。高校時代の友人がプロテニスプレーヤーになって、
R社をスポンサーにしています。友人が社長のお気に入りなのです。
彼にも、力を借りることが出来ます。」
会長は笑って、満足そうに成長した孫を見つめていた。
母も景吾を見て頷いてくれた。初めて、母の愛情を身近に感じた瞬間だった。
父だけが納得できない顔をしている。
「しかし・・・」
「良いではないか。景吾の好きなようにやらせてみよう。
生まれてからずっとお前を見て育ってきたのだ。
厳しさも知っていて景吾が決めたこと。覚悟も出来ているだろう。
好きな女と生きるのも良いだろう。」
「ありがとうございます」
「・・・同じ過ちを孫にまでしたくはないからの。」
頭を下げた景吾に祖父がポツ・・・と言った。
それが両親の結婚を指しているのだと理解した。
会長の家を辞して外に出ると、片岡が車と共に待っていた。
片岡は景吾の顔を見ただけで・・・解決したのだと知ることが出来た。
「彼女は祖母のもとに身を寄せています。
地図は運転手に渡してあります。ここからなら、暗くなる前には着ける思います。」
「分かった。」
差し出された住所に目を通して、胸のポケットに仕舞う。
その目の前にもうひとつ差し出されたのは、辞表だった。
「長くお世話になりました。
専務のお力になれなくて・・・申し訳なく思っております。どうか・・・」
「明日の朝には戻る。R社と提携に向けて交渉に入る。
この前、お前も近くにいたから分かるな?直ぐに使える人間を各部署から集めてくれ。」
言いながら、景吾は片岡の辞表をふたつに破ると本人に返す。
本能的につい差し出された物を手に受け取ってしまった片岡が信じられない・・・という顔で見つめていた。
「来週にはNYへ飛ぶ。そっちの手配もしておいてくれ。行ってくる。」
「あ・・・いってらっしゃいませ。お気をつけて。」
慌てて頭を下げた片岡に、ほんの少し笑って景吾が車に乗り込んだ。
片岡は破かれた辞表を握り締めたまま、景吾の車が出発してもずっと頭を下げていた。
さあ。捕まえに行くぜ。
捕まえたら最後。何があっても離しはしない。
窓の外。冬とは思えないほどに陽射しが輝いて眩しいほどだ。
俺の・・・花。
冷たい風に吹かれて、泣いてはいないだろうか?
寂しさに、心が凍えていないだろうか?
俺の・・・。
「見えますか?ここですね、これが赤ちゃんの入っている袋。これが赤ちゃん。
この小さくピコピコ動いているのが心臓です。」
「ふふふ・・・可愛い。」
医師が見せてくれるエコーを見ながら、自然と笑顔になった。
「写真、あげましょうね。」
小さな命はプリントされてに渡された。
手足も見えない。まだピーナツみたいな姿。それでも、ちゃんと生きている。
妊娠届けの用紙を渡されて、予約の仕方や、健診の手順を説明される。
母親学級の案内も一緒に渡された。
会計を待つ間に目を通すと、土曜日は両親学級になっている。
印刷されたパンフレットには夫婦で沐浴している写真が載せられていた。
少し・・・胸が痛んだ。
こんなことでいちいち落ち込んでいては女一人で子供は育てられないだろう。
もっと、強くならなきゃ!
自分に言いきかせて、エコーの写真を見つめる。
景吾の赤ちゃん。
愛した人がくれた・・・最高のプレゼント。
会計を済ませて、病院の外に出た。
今日は風もなく穏やかな日だ。お日様が当たる場所は暖かい。
病院の花壇に頭を出しているチューリップを見つけた。
春にはここにチューリップが咲き並ぶのだろう。
ほんの少しの花から幸せを貰って歩き出す。
時間は確実に過ぎていき。
草花はその身に春が近づいて来ていることを知っている。
生きていく。私も・・・この子と一緒に。
景吾。
心の中で、そっと・・・大事な人の名前を読んだ。
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