
朝は車を運転しながらラジオを聴くのがの日課だった。
ニュースに耳を傾けながらハンドルをきる。
もう3日、景吾に会っていなかった。
今度は中国。
急に決まった出張に、電話で話しただけで旅立った恋人。
結局は大事なことを言えないままだった。
は自分に考える猶予が出来たことに内心ほっとしている。
自分はこれからどうすればいいのか・・・考えあぐねていたから。
新しい命がの中にある。
この命。消すことは絶対に出来ない。
愛した人が与えてくれた命だから。
だが、望まれる命ではないことも事実。
景吾が知ったらどうするだろう。
自惚れでなければ・・・産んでもいいと言ってくれるだろう。
でも。景吾の足を引っ張るわけにはいかない。
『専務には婚約の話が出ています。春になれば、正式な発表もされるでしょう。
サングループ・・・ご存知でしょう?IT関連企業トップのグループです。
そこの社長令嬢です。専務には理想的なお相手と言えるでしょう。』
突然現れたスーツ姿の男は・・・片岡だった。
その片岡に促されるままカフェに入ったが聞かされた事実。
流れるように説明する片岡の言葉が、異国の言葉を聞くように耳を過ぎていく。
『お分かり頂けますでしょうか?専務にとっても、我が社にとっても・・・重要な結婚です。
一時の感情で貴方を選んでしまったら・・・専務に未来はない。
あれだけ優秀な方が・・・潰されてしまうんです。
お願いです。身を引いていただけませんでしょうか?
貴方から終わらせないと、専務からは終わらせられない。
専務は・・・本気で貴方を愛しているから。』
深々と頭を下げる片岡を見つめながら、もう充分だと思った。
私はあの人に・・・心から愛された。
そして、私も心から愛した。
素晴らしい贈り物も貰った。
そろそろ、別れを告げる日が来たのかもしれない。
今日が仕事納め。
最後は、大事な人と出会った・・・あの本社前に店を出そうと決めていた。
「?」
『・・・景吾。お疲れ様。今、大丈夫?』
「ん?ああ。珍しいな、お前から電話してくるなんて。初めてじゃないか?」
日本と上海の時差は1時間。ちょうどホテルに戻ってきたところだった。
時計はもう直ぐ日付が変わることを知らせていた。
『え・・・そうだっけ?』
「ああ。何かあったのか?」
『ううん。何もない。ねぇ・・・景吾。声を聞かせて?』
「どうした?俺が恋しくて泣いてんじゃねぇだろうな?」
景吾が少し笑いを滲ませて言った。
受話器の向こう、もクスクスと笑う気配がする。
『そうよ、寂しくて泣いてるの。だから、声を聞かせて?』
笑いを含ませたの声。
景吾にはの顔が見えていない。
愛しい恋人が寂しくて甘えているのだと・・・胸を温かくする。
はダンボールに詰められた荷物に囲まれながら電話をしていた。
ぎゅっとタオルを目に押しあてて膝を抱えながら、受話器を耳に当てている。
「週明けには帰国する。そしたら、嫌になるくらい声を聞かせてやるよ。」
『そう。無理は・・・しないでね。』
「お前、風邪か?鼻声だな。」
『んー、そうかも。こっち、寒くて。』
「馬鹿。お前こそ無理するなよ?早く寝ろっ」
『お願いっ。もう少しだけ・・・もう少しだけ、声を聞かせて?』
「?」
『もう・・・電話しないから。これが・・・最後だから、ねっ。』
景吾は携帯を片手に窓の外に目をやる。
小雪がチラチラと待っていた。
日本も寒いだろう・・・そう思うと恋人の体が心配だった。
「バーカ。何が最後だ、お前は何時でも電話してくりゃいいんだよ。遠慮するな。」
『・・・うん。』
またの笑う気配がする。
「もう、切るぞ。とにかく温かくして早く寝ろっ。辛かったら仕事は休めよ。」
『・・・うん。』
小さくなるの声。
「じゃあな。おやすみ、。」
『景吾』
「ん?」
『・・・愛してるわ。心から。』
「ああ。分かってる。俺もだ。」
『・・・ありがとう。景吾。忘れない。』
「?」
『眠くなってきちゃった。もう、寝るわ。おやすみ、景吾。あなたも早く寝て。』
なんとなくの言葉が心に引っかかった。
けれど、それは一瞬で。
次には明るい声が耳に聞こえてきたから、その違和感を景吾は突き止められなかった。
「ああ。おやすみ。」
おやすみなさい。景吾。
が呼んだ自分の名前。
それが、最後の言葉だと知らず。
景吾は電話を切ってしまった。
もう切れてしまった受話器をいつまでも耳に当て。
はやっと・・・声をあげて泣くことができた。
翌朝、引越しの業者がやってきた。
独り暮らしの部屋は、あっという間に空っぽになってしまった。
ぼんやりとリビングに立ち尽くすの小さな背中。
さすがに片岡の胸が痛んだ。
せめても・・・と。片岡が社長に頼んだ小切手をに差し出した。
「受け取れません。」
「駄目です。こちらの勝手で職も失うことになります。当面の生活費だってご入用でしょう。
お願いです。せめて、これを受け取ってください。」
頑なには首を横に振る。
「さん。お願いです。受け取っていただけないと・・・専務にも言い訳が立ちません。
貴方がお金を受け取れば・・・辛いでしょうが、専務も諦めやすくなるのです。」
つまり、金を貰って身を引いたという事実が欲しい・・・ということ。
残酷なことを言っていると承知しながら、片岡は小切手を差し出した。
はきゅっと唇をかんだ。
でも、一度目を伏せると。次には、しっかりとした口調で片岡に告げた。
「では、彼にはお金を受け取ったと言ってください。けれど、私は受け取れない。
私たちは・・・ただ恋愛をしたんです。ごく普通に出会って、恋をした。
それが終わっただけです。
普通・・・恋愛が終わる時にお金の受け渡しはしないでしょう?だから、受け取れません。」
「さん・・・」
「片岡さんには、引越しの手配とかしてもらって感謝しています。
辛い仕事をさせてしまって、ごめんなさい。」
「私などは・・・」
「最後にもうひとつだけ。これを・・・彼に渡してください。」
途惑う片岡には笑顔を見せた。
差し出されたのは指輪が入っているだろうケースと封筒。
手に取ると、それが合鍵であろうことが分かった。
まさかとは思うが、何か居場所を知る手がかりになってしまうような手紙は入っていないだろうか?
「あの・・・手紙などは?」
どこまで自分は、この純粋な女性を傷つけるんだろう。
「何も。鍵だけです。」
「そうですか。・・・すみません。最後まで嫌な思いをさせてしまいましたね。」
ふ・・・と笑って。が首を振った。
が乗り込んだ車が小さくなるまで、片岡は見送る。
景吾がに惹かれたわけ・・・なんとなく分かった気がした。
親の愛情が薄かった景吾に、彼女の持つ包容力・・・優しさが、どんなにか救いになったのだろう。
なのに。それが分かっていて、自らの手で景吾から彼女を取り上げてしまった。
自分は・・・とんでもない罪を犯したのではないか?
の車が見えなくなっても、片岡はずっと立ち尽くしていた。
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