本気の恋 5
朝の澄んだ空気の中、弓を引く。
こころを集中させ、真っ直ぐ的を射る。
矢から手を放した瞬間、耳元に響く風の音が好きだ。
早朝練習の予定もない弓道場で、はひとり弓を引いていた。
それを遠くから忍足は見ている。
彼女が弓を射る姿が好きだ。
的を見つめる横顔は、コートに立つ跡部の横顔に少し似ている。
なにをも恐れない人間の目だ。
弓道場の出口で頭を下げ、袴姿のが振り返る。
そこにはジャージ姿の忍足がラケット片手に立っていた。
「おはようさん」
「おはよう」
僅かに驚いた顔を見せただったが、直ぐに落ち着いた挨拶を返してきた。
だが足は止めずに部室へ向かって歩き出す。
その後ろに忍足もついて歩き出した。
「なんの用?」
「昨日、待ってた。」
「行くとは言わなかったし、跡部にも伝言した。」
「せやな。けど、跡部とは何所で会うた?部室の近くやないんか?」
が眉を寄せるのに気付いた忍足はラケットを強く握り直す。
「俺が他のコといたから嫌んなった?」
「関係ない。用事があって急いで帰らなくてはならなかった、それだけ。」
「嫌な思いさせて悪かったと思ってる。けど、俺は」
「行かなくて悪かった、ゴメン。これでいい?」
足を止めたが一気に言った。
強い瞳が忍足を射ぬき、言葉も出ない。
「もう謝ったしいいでしょう?これに懲りて、二度と私を誘わないで。」
スッと自分の前を冷たい横顔が通り過ぎていく。
咄嗟に忍足はの肘を後ろから掴んで引っ張った。
「忍足!?」
「俺の話を聞いてくれっ」
見開かれた琥珀色の瞳に忍足の必死な姿が映っている。
掴まれた腕の強さにの顔が歪んだ。
「お前と一緒に帰れるのが、めちゃ嬉しかった。
ずっと嫌われてると思ってたのに、お前が俺に笑ってくれたから
どうしようもないくらい浮かれてた。
ドキドキして、落ち着かなくて、
とてもじゃないけど部室にこもっていられなくて外に立ってたら他のコに捕まってしもうた。」
「そんな言い訳は聞きたくないし、忍足が誰と付き合おうと私には関係ない」
「!」
忍足の大きな声にの肩が竦んだ。
誰だこの男は、と思う。
いつもの飄々として、穏やかで愛想のいい忍足は消え失せていた。
レンズの奥の瞳は真剣で、笑顔のない唇は僅かに戦慄いている。
こんな忍足は初めて見た。
「俺はお前が好きや」
言葉の意味を考えるより先に、は忍足の腕を力一杯に振り払っていた。
そのまま目の前にある弓道部の部室に飛び込み鍵をかけると、扉を背にずるずると座り込む。
時を経ず部室の前に人の気配がして、は背中を緊張させた。
「・・・俺は本気やから。それは信じてくれ。」
冷たい扉に額をつけて、忍足は告げた。
その扉の向こう、は膝を抱いて忍足の声を聞いていた。
自分の中の何かが壊れていくようだ。
嘘だ、そんなの。
は首を横に振り、袴の膝を強く握る。
なにを信じろと言うのか、好きだという言葉はこんなにも大きいのに。
何故そうも簡単に口にして『本気』だと言えるのか。
しばらく部室の前にあった忍足の気配は、やがて遠ざかっていく。
それでも長い間、は立ち上がることができなかった。
以前にも増して、が忍足を避けるようになった。
忍足も無理に追いかけるようなことはしない。
ただじっと、の背中を遠くから見ていた。
「オッシー、ひとり?ねぇ、一緒に食べようよ。」
「悪いなぁ。岳人と食べる約束してんねん。」
ひらひらと手を振って、忍足は独りで学食に歩いていく。
ここ最近の忍足は誘っても付き合いが悪いと、女子の間で不思議がられていた。
取り巻きのいない忍足が渡り廊下を歩く姿を見下ろし、跡部は小さく溜息をつく。
生徒会室の窓から見える忍足の姿を隣のも見たはずだが、黙って資料を読みはじめた。
「忍足とは」
「ここ、数字が違ってる。今日中に直さなきゃ。」
「ああん?どこだ。まったく、使えない書記だな。今すぐ呼び出して直させろ。」
「自分で直した方が早いよ。」
言うより早くパソコンに向かったが黙々と作業を始めた。
跡部もそうなのだが、ついつい効率を求めて自分で何でもやってしまう。
これでは後が育たないと分かってはいるのだが、他に任せると腹立たしい事も多くて待ちきれない。
跡部の考えを先回りして、かつ要求以上の成果を出してくれるには仕事の比重が増えている。
「俺が言えた義理じゃないが、あんまり無理すんな。」
「景吾が優しいと後が怖い気がするから、何も言わなくていいよ。」
「なんだ、それ。」
ふふっとが笑った。
小さい頃から見慣れてきた顔だが、綺麗な女だと思う。
お互いに似ていると言われてきた顔だから今更ときめきはしないが、綺麗なものは綺麗だ。
笑うと少し幼くなって可愛いらしいのだが。
いつも整った顔を難しそうにして、前ばかりを見ているのが可哀想になる。
自分と違って、息抜きも知らない。
浮いた話も聞いたことがないし、家の長女として恥じないように生きてきたのだろう。
「」
「ん?」
キーボードを叩く音が響かせながらが返事をする。
跡部はデスクに頬杖をつき、その美しい横顔に向かって言ってやる。
「お前、笑ってろよ。その方がモテるぜ?」
ええ?と顔をあげたが、また困ったように笑った。
「モテても、好きな人にモテないと意味がないんだよ。そんなの景吾だって分かってるでしょう?
あのコ・・・名前なんだっけ?ちっちゃくて、可愛いコ。」
やぶ蛇だったと跡部が目を眇めると、は声をたてて笑った。
「見てるだけで守ってあげたくなるようなコって、いいよね。」
「別に、そんなんじゃねぇよ。」
「私も・・・、なんてやめとこう。私は私だから。」
「お前はそのままで充分に魅力的な女だよ。」
「身内に言われてもね。」
「俺がお世辞を言うような男だと思うか?素直に受け取っとけ。」
「ハイハイ。ありがとう。」
あまりに完璧すぎると、それがコンプレックスにもなるのか。
跡部は作業に没頭し始めたを見ながら、また一つ溜息をついた。
本気の恋 5
2008/06/07
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