お慕いしております 〜日吉若編〜 完 











大事なものを見失ってはならないと母は言った。


日吉は思う。
それは自らの誇りであり、その誇りを理解してくれる人だ。



!」



不思議な感覚だった。
己が呼ぶためだけに存在していると錯覚を覚えるほどに、しっくりとくる名前。
ぞんざいに呼び捨ててきた名に意味があることを初めて知った。



「若様!!」



振り返ったは、また滅多に見せない涙を瞳に溜めて我が名を呼んだ。強く。



慌てて袖を掴もうとする親の手を振り払い、
自分に向かって駆け出してくるの姿を見た時、日吉は初めて誰かを愛しいと心から思った。


色恋など昔から関心がなく、親しい友人も持たなかった日吉は知らなかったのだ。
存在を失うなど耐えられない。奪われるのなら何をしてでも奪い返す。
それほどの執着を人は人に持つのだと。


日吉は走ってきた勢いのまま、裾を乱して必死に伸ばしてくるの手を掴んで懐に抱きこんだ。
自分の大切なものを奪われないように深く深く抱きこんで、周囲の者を睨みつける。



「若殿・・・これはいったい」
、これはお前が望む縁談か?」



の父が驚愕の表情で問うのも無視して、日吉はに訊ねた。
好いた人の胸に抱きとめられたは泣きじゃくりながら首をふる。


どういう事情があって、この場に若が来てくれたのかは分からない。
だが、理由など今のにとってはどうでもよいことだった。


若様がきてくれた。
この人と絶対に離れたくないと、それしか考えられない。



は・・は、ずっと若様をお慕いしておりました」



若様以外の人のもとへなど嫁ぎたくないのですと涙に濡れた顔をあげて切に訴える。
はしたないとか、恥ずかしいなどとは考えられないほどに、は必死だった。


後先など考えなかったのは日吉も同じだ。
いざとなったら大嫌いな忍足にだって頭を下げてやると心に決めて家を飛び出してきたのだ。


ぎゅっとを抱いた腕に力を込めた。



殿、私とは幼い頃より生涯を共にすると約束しております
 ゆえに此の度の縁談は到底納得できるものではなく、破談をお願いしたく参りました」



唖然とするとは、このことか。
も思わず日吉を見上げたが、聞かされたの両親は咄嗟に言葉も出ないほど驚いている。



「ば・・馬鹿なことを。そなたは望月家に婿入りすると」
「確かにお話はいただきましたが、私にはがおりますからお断りしました」


「若様!?ほ、本当に?」



腕の中のまでが初めて聞く話に驚いているが、日吉は綺麗さっぱり無視をした。


言い訳など後でもできる。
も自分を慕ってくれているのが分かれば不都合はなく、この場は強引にでも我を通すと決めた日吉だ。


しかし、の家も『はい、そうですか』と簡単に済ませられる話ではなかった。
相手は家老の縁者だ。ここまできて断るなど、到底できない相手だった。


可哀想だが、もう遅い。
娘の悲嘆を思うと今さら何故だという怒りすら覚え、父は奥歯を噛みしめた。



「若殿、無茶を申されても」



突っぱねようとした言葉に重なり、突然に背後から手を打つ音が聞こえてきた。
見れば重厚な門に背を預けている男が笑顔で手を叩いている。



「いやいや、面白いものを見せていただいた。礼を言おう」
「仁王殿」



着流しに刀を差した男が笑って言うのに、隣に立つ生真面目そうな袴姿の男が咎める。
この見るからに育ちの良さそうな袴姿の男がの見合い相手なのかと日吉は表情を硬くした。


だが、は袴姿の男を見て「先生」と呟く。
よくよく見れば、袴姿の男は紹介してもらった医師の子息であった。


だとすると着流しの男は何者なのか。



「相手に許嫁がおったとは、俺は完全な悪者じゃ。なぁ、比呂士」
「君は黙っていて下さい。とりあえず皆さん中に入られては如何でしょう?ここは人目もありますし」



比呂士と呼ばれた男は隣の男をひと睨みしてから、前に進み出てたちを促した。
確かに外では込み入った話もできないと皆が納得したが、日吉だけは背を門に預ける男を睨み続けている。


それは勘か、確信か。
仁王という男は、かなりの腕を持つ者だと日吉は感じていた。



「いや、ここで結構。話は早いしな」



仁王は日吉の鋭い視線を避けもせず、唇に薄い笑みを浮かべて門から背を浮かせた。
眉根を寄せて振り返る柳生の肩を軽く叩き、一歩、二歩と近づいてくる仁王の足取りには隙がない。


この男、やはりできる。


日吉の目は更に鋭さを増したが、軽く受け流した仁王は緊張感なく微笑んだ。



「この話は元から無かったということで仕舞いじゃ
 我らは道端で偶然に会しただけ。はい、さようなら」



ひらひらっと日吉の前で手を振った仁王は、物言いだけな柳生を促し「飯じゃ、飯じゃ」と踵を返す。
お待ちくださいとの父は慌てるが、後のことは御心配なくと仁王は余裕だ。


申し訳なく思ったは日吉の腕を抜け出し、両親と共に深々と頭を垂れた。


だが、日吉は頭を下げなかった。
得体のしれない威圧感と緊張感に握りしめた拳が汗をかいている。


此処にも倒したい相手がいたと闘志が滾るのを感じ、去っていく仁王の背中から目が離せなかった。



その後は散々だった。
の両親には散々嫌味を言われ、我が家族には叱責された。
怒る父の隣で喜びを隠しきれてない母の表情が救いと言えば、救いだったか。



「若様、どういう心境の変化でを許嫁にして下さったのです?
 いつ、何がどうして、どうなったのか、に分かるよう説明してくださいませ」



縁側に座したが問いつめてくる。
やはり幼馴染は遠慮がなく、かつ容赦もなかった。
気持ちの変化など問われても、日吉自身がうまく説明できるものでない。
例えできたとしても、そんな恥ずかしいことが言えるかと日吉は無視を決めこんだ。



には若様が変わられた理由が分かりません
 理由が分からないと不安になるというか、これは夢かもしれないって心配に」


「夢なわけがあるか。俺はお前のおかげで非常識な男だと烙印を押されたんだ」
「そんなこと」



庭で素振りをしながらの日吉は相変わらずを見ないで憎まれ口を叩く。
でっちあげとも呼べる許嫁宣言の理由は今も分からないまま、それでも婚儀の準備は順調に進んでいた。


妻になれることは素直に嬉しい。
嬉しいけれど、若の本当の気持ちが分からないと不安になってしまうのだ。
若の更なる出世も潰してしまったし、自分の存在は何なのだろうと怖くなる。


ついつい気持ちが落ちこんで項垂れていると上から頭を小突かれた。


むっとして文句を言おうとあげたの視線の先には、もう焦点の合わなくなった日吉の顔。
あ・・と思った時には、柔らかな感触が唇を掠めて去っていく。



「若・・様」



震える声でが名を紡いだ時、日吉は再び背を向けて素振りを始めていた。






『いつでも雀くらい俺が捕まえてやる』


『本当?いつでも?』
『ああ。いつでも』


『じゃあ、若様とずっと一緒にいなくちゃ』
『まぁ、お前ならいいが』






あの幼い約束を覚えていてくれたのだろうかと思う。
何事もなかったように木刀を振るう日吉の耳が赤いのを見て、は気恥ずかしくも幸せな笑みを浮かべた。




















お慕いしております 〜日吉編 完 

2011/01/23




















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