『お慕いしております 〜乾貞治編〜』 その後
手をひかれて駕籠を下りたは瞬きを忘れた。
「こ・・ここは」
「俺の屋敷だけど?」
此処に来るまで、ろくに会話をしていない。
突然に花嫁衣装が届き、女将から大まかな事情を聞いただけなのだ。
乾に会えた時は感極まって泣いてしまったので、これからどうするかなど聞くこともできなかった。
駕籠の中で隣に寄り添う足音を聞きながら考えた事といえば、
夢ではないだろうかだとか、本当にあれは乾様なのだろうかなどと愚にもつかないことばかりだ。
「お帰りなさいませ。本日はまことにおめでとうございます」
出迎えた家の者に頭を下げられ、は混乱しながらも同じように返す。
そして広く重厚な武家の屋敷を前にして突然に怖くなった。
足が進まなくなったを振り返り、乾が長身の体を折り曲げて目線を合わす。
「どうした?」
「わ・・わたし、どうしたら」
「どうもしない。これから簡単だが祝言をあげて」
「し、祝言!?」
白無垢を着た時点で分かりそうなものなのだが、その驚きように乾の方がたじろいだ。
勝手に両想いだと話を進めたのだが、実は違っていたのかと。
は顔色を失くして頭を振ると、乾の羽織を掴んで訴えた。
「わたしのようなものを娶っては乾様のためになりません」
「何かのためにしようと思って娶るわけじゃないよ」
「違います!乾様とわたしでは、あまりに不釣り合い。わたしは乾様の名を汚してしまう。だから」
いつの間にか頬を流れる涙を拭いもせずに、は必死で訴える。
その姿をじっと見下ろしていた乾は、ふっと表情を和ませた。
「手練手管に騙されてなくて良かったよ。これで手塚も安心するだろう」
「乾様?」
意味の分からないことを言われ、の指から力が抜けた瞬間だ。
乾の身が低くなったと思った時には膝裏をすくいあげられ、声を立てる間もなく抱きかかえられてしまった。
「お、降ろしてください」
慌てる花嫁の背を撫でて、乾は楽しそうに笑いながら歩き出す。
「心配しなくても汚れるほどの立派な名ではないから気にしなくていい
それにね、君が養女になった柳家は此処でも一目置かれている家だから平気さ」
「でも、わたしが遊女であったことは消せやしません」
痛みに叫ぶような声だった。
乾は歩みをとめて、まっすぐにと視線を合わせる。
涙と不安と戸惑いに濡れた瞳が揺れていた。
ああ、幸せにしてやりたいなと唐突に乾は思う。
腕に抱いた女が健気で、可愛くて、愛しくて愛しくてたまらない。
蕩けるような笑みを浮かべた乾は花嫁に額をつけるようにして囁いた。
「そんな君をお慕いしているよ」
ささやかな宴に桜色に染まった花嫁を抱いた花婿が現れるのは、もうすぐだ。
お慕いしております 〜乾編〜 その後
2011/05/24
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