お慕いしております 〜乾貞治編〜 『ささやかな幸せ』











今も夢に見る。
遊女として過ごした日々、思い出したくない客の顔。



嫌。嫌。嫌だ、嫌だ、嫌だ。助けて。誰か助けて。
ああ。もういっそ死んでしまいたい。誰か・・・



手を伸ばして叫ぶ。



誰か。







名が呼ばれ、伸ばした手が大きな温もりに包まれる。
しっかりと掴まれた手を必死で掴み返せば「大丈夫だ」と声がした。


落ち着いた優しい声。
この声の主をは知っている。
だから安心していい。嬉しくて涙がこぼれた。



「乾・・・さま」
「ここにいる。だから大丈夫だ。安心してお休み」



穏やかな囁きと頬に触れる温もり。
は心から安堵して眠りの国へと戻っていった。





震えていた吐息が、やがて静かな寝息になるのを乾は黙って見守る。
縋るように伸ばされていた手は離さないまま、もう片方の手で頬を撫で、髪を撫でてやった。



記憶を失うことでもできない限り、は生涯『悪夢』を見続けるかもしれない。
あまりにも辛い記憶だからこそ刻まれたものは強烈で、今がどんなに幸せでも消せはしない。
いや・・今が幸せだからこそ、忘れたい記憶が浮かび上がってくるのかもしれなかった。


を娶ってから、乾は何度も妻が苦しむ様を見た。
その度に宥め、慰め、そして強く抱いた。


城詰で夜を明かすことがあれば心配で落ち着かない。
家に残してきたが、独りの床で泣いているのではと気が気じゃない。



『昨夜は少し泣かれましたが、背中を撫でて差し上げたら直ぐに落ち着かれました』



の世話を頼んだ乾の乳母が報告してくれた。
昼間は朗らかで、一生懸命に家事をするを知っているからこそ、不憫で堪らないと乳母は涙ぐむ。


遊女を迎えたことに色々と言う者は多かった。
今も裏では好き勝手に言われていることだろう。


だが乾に後悔は一つもない。
夢を見ては泣き、何かにつけて自分の存在が夫の足枷にならないかと心配している妻が愛しくてならなかった。


もっともっと幸せにしてやりたいと思う。
夢も見られないほどに抱いて抱いて、抱き潰してしまおうかと物騒なことを考えてしまうほど愛しい。


可愛い、可愛い、俺だけの


すっかり眠ってしまった細い体を抱きしめ、乾は目を閉じる。
朝には花が咲くような笑みで起こしてくれるを楽しみにして。





目が覚めると目前に夫の胸があった。
着物の合わせ目から覗く美しい鎖骨がは好きだ。
優しく背に回された腕も好きだ。
ほら、と差し出される大きな手も長い指も。
乾を構成する全てが好きなのだと思えば、とても幸せな気持ちになった。



たぶん・・また昨夜は夢を見たに違いなかった。
詳細を覚えているわけではないが、乾の穏やかな声と触れてきた温もりを覚えている。


迷惑ばかりをかけて申し訳ないと思う。
こんな自分を娶らなければ陰口をたたかれることも、面倒なこともないだろうに。


幸せな気持ちで目覚めたはずなのに、鼻の奥がツンとする。
夫は笑った顔が好きなのだから泣いては駄目と強く目を閉じた。


婚礼の夜、泣きじゃくるに乾は言った。



『君が遊女で良かった。でなければ俺は君に出会うことすら出来なかったからね
 過去があって、今の君がいる。俺は今の君を慕い、これからも慕い続ける
 最初の男になれなくても、最後の男になることの方が俺は嬉しいよ
 さぁ、愛させてくれ。何もかも君のすべてを俺にくれ』 



思い出しても頬が熱くなる。
甘い言葉で口説こうとする客は山ほどいたが、ここまで熱のこもった言葉をくれた人はいない。


ふっと唇をほころばせ、は閉じた目を開いた。



「朝から百面相かい?」



頭の上から降ってきた声に顔をあげれば、面白そうに笑みを浮かべた乾が目を覚ましていた。



「いつから起きて」
「うん?君が起きた時からだが」



なんと。狸寝入りをして、自分の様子を観察していたというのか。
こういうところは意地悪な夫に、は唇を尖らせた。



「ひどいです。起きているなら、そうと仰って下さい」
「いや。寝ていたら君から口でも吸ってくれるかと期待してしまった」



朝から何を言い出すのか。
頬に朱をのぼらせるを乾は笑顔で見つめる。



「では奥方、朝の接吻を」
「し、知りません」



顔を近づけてくる夫の唇を両手で押さえてが怒る。



「君の接吻で今日の一日が良い日になるんだが」
「嘘ばっかり」


「嘘じゃないさ。なら試してみよう」
「昨日も同じようなことを仰りました」


「なるほど。だから昨日は良い一日だったか」
「もう・・・」



が観念した様に乾の唇から手を離した。
その手のひらをつかまえて、そっと口づけた乾が微笑むと
も朝露に濡れた蕾が開くように美しい笑みを浮かべた。



いつの間にか悪夢も悲しみも去り、
笑ってお互いの唇に触れる幸せな夫婦を朝日がつつんでいった。




















お慕いしております  ささやかな幸せ  

2012/01/09





















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