お慕いしております 〜乾貞治編〜 『愛し愛しと思えば』
はらはらと薄紅色の花びらが舞う。
風流な趣味など持ち合わせていない自分だが、それでも桜は美しいと思う。
うららかな春の日差しに目を眇め、海堂は通い慣れた門をくぐった。
「貞治様は奥にいらっしゃいますので、どうぞ」
日頃から乾家に出入りすることの多い海堂は特別に取り次いでもらわずとも奥に通される。
今日も普段通りに奥へと促されて足を進めた。
乾の私室は奥にあり、長い廊下は立派な庭に面している。
ここにも桜が植えられており、わざわざ花見に出かける必要もない。
久しぶりにきたのだが、やけに庭が綺麗になっている。
常なら収穫してきた薬草やらが無造作に干してあったりするのだが・・・
そんなことを考えながら奥に近づくと乾の声が聞こえてきた。
「うん。いいんじゃないか?」
「そうでしょうか。形が悪いというか・・・」
「そうかな」
乾の声と共に女の声がする。
年若い女の小さな声に、海堂は顔が強張るのを感じた。
それは乾が娶った遊女の声だ。
廓で見た女は男に頬をぶたれて無残な姿をしていた。
乾が情報を得るために引き入れた遊女だとは知っていたが、それだけのこと。
まさか尊敬する乾が件の遊女を妻に迎えるとは夢にも思っていなかった。
考え直した方がいいと海堂は何度も言った。
だが乾の考えは変わらず、結局は恩を着せられて金の工面まで手伝わされた。
苦々しい思いで参列した婚儀では白無垢を着た遊女をつい睨んでしまったほどだ。
「いいじゃないか。本人が幸せなんだから」
「一時の感情で遊女などを娶って、乾さんの名に傷がつく」
桃城が宥めるように言うのにも、海堂は耳を貸さなかった。
ただ手塚以下、他の者たちが祝福しているのを横目に表立って不服を言うこともできず我慢したのだ。
乾は頭も良いし、力もある。
この青学を支えていく重臣であるはずなのに、遊女の妻は足枷にしかならない。
考えれば考えるほど口惜しくて、最近の海堂は乾家から遠ざかっていた。
それでも城での乾は以前と変わらない。
久しぶりに訪ねてきたのも、乾から頼まれていた珍しい薬草が他国から届いたからであった。
『あれが届いたら直ぐに持ってきてくれよ』
そう頼まれていたから、避けていた乾の屋敷にまでやってきたのだ。
廊下の角を曲がると乾の私室が見えた。
気候も良く桜が咲いているためか障子は全て開け放たれ、室の様子がよく分かる。
乾は文机に向かう妻を後ろから抱くようにして筆を動かしていた。
真剣な顔をして紙に向かう妻の顔を後ろから覗いて微笑んでいる。
「ここで少し力を抜けば形が整うよ」
「はい」
言って、妻の小さな手に己の手を重ねて文字を教えているようだ。
その仲睦まじい姿に海堂の足が止まった。
「ほら、上手く書けた」
「それは貞治様が手伝って下さったからです」
「なら次は自分で書いてごらん」
「うう・・頑張ります」
幼子のように頷いて、今度は独りで筆を動かす。
その姿を後ろから優しい眼差しで見つめている乾がいた。
なんだろう。見ている方が恥ずかしくなる。
みょうに頬が熱くなる気がして海堂が戸惑っていると、背後から茶の用意をした乾家の女中がやってきた。
「さすがの海堂様も近寄りがたく思われますか?」
「そ、そのようなことは」
おかしそうに笑った女中は目を細めて主たちを見遣る。
「本当に仲がよろしくて、私どもも目のやり場に困るほどなのです
様は恥ずかしがっておいでなのですが、もう貞治様が片時も離さないというご様子で
そのうち様に鬱陶しがられて愛想を尽かされるのじゃないかと皆が心配しております」
唖然として話を聞いていた海堂は、再び乾たちに目を向けた。
集中して筆を動かすの髪を春の風が撫でていき、桜の花びらを一枚、その黒髪に落としていった。
気付いた乾は妻の集中を切らさぬように、そっと長い指先で花びらを取ると胸の懐紙を取り出して挟む。
妻に触れた花びらでさえ大事だと言わんばかりに懐紙を胸に仕舞うと、また穏やかな目で妻の筆運びを見つめた。
いいじゃないか。本人が幸せなんだから。
桃城の声が思い出された。
ひとつ深い息を吐き、海堂は抱えていた包みを女中に差し出す。
「せっかくの休みを邪魔しては申し訳ないのでとお伝えください」
「よろしいのですか?」
「独り身には辛いので」
海堂が苦々しく呟くと、女中は袖で口を覆って笑った。
日も落ちた頃、茶と共に置かれた包みを乾は受け取った。
乾の腕の中には眠るの姿がある。
が一生懸命に書いた文の宛先は不二の奥方だ。
不二の妻は他国の姫であったが、不二に惚れ込んで自ら嫁いできた強者だ。
とても柔軟な思考と行動力を持った姫で、遊女であったにも偏見なく接してくれる。
それだけでもありがたいのに、武家の妻としての教養を教えてくれる師となってくれた。
文を書くのも練習ですよと師から宿題をだされただったのだ。
「海堂様が置いて行かれました」
「ああ。来ているのは知っていたが…」
「独り身には辛いと仰られて、早々にお帰りなられましたよ」
その時の様子を思い出したのか、女中は笑いながら話す。
乾も僅かに笑って、机の上にある文を指差した。
「の努力の結晶だ。悪いが頼めるか?」
「不二様のお屋敷でございますね。できたらお返事も頂いて参りましょう」
「そうしてくれるとが喜ぶ」
「はい」
疲れて眠るに頬を緩め「では、早速」と女中は辞していった。
腕の中のは甘えるように乾の胸に擦り寄って小さく体を丸めている。
安心しきった寝顔に笑みを誘われ、乾は片手で茶を飲みながら舞い落ちる桜に目を移した。
誰に何を言われてもよいと思って娶った妻だが、その妻が夫を気遣って悲しむのでは意味がない。
せめて心を許した者たちには、を娶って己は幸せなのだと分かってほしいと思う。
生まれも育ちも関係ない。
好いてしまったら、もうその存在が唯一なのだ。
「乾・・様」
「うん?」
懐かしい呼び名に腕の中を見れば、は乾の着物を握って眠ったままだ。
可愛らしい寝言に笑みをこぼし、乾は愛しい人を抱く腕に力を込める。
を慈しむ己の心が、きっと周囲を変えていくと信じて。
お慕いしております〜乾貞治編〜 『愛し愛しと思えば』
2012/01/31
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