お慕いしております〜乾編〜 変化 (前編)
その知らせは突然だった。
驚くというより少々呆れた柳であったが、まぁ・・奴ならばと思う。
いつも突拍子のないことをしでかす。
それが乾貞治という男なのだから。
「貞治は?」
「それが・・・いつの間にか蓮二様の書庫に」
早々に城を辞して屋敷に戻った柳は、出迎えた妻の表情に苦笑を浮かべた。
遠方から突然に訊ねてきた友の、その遠慮のなさに戸惑っているのだろう。
「俺も青学に行けば、貞治の書庫に籠らせてもらっているからな。お互い様だ」
「そうでございましたか」
客人を主の室に入れてしまったことを気に病んでいたのだろう。
安堵の表情を浮かべた妻に、柳は一番の気懸りを訊ねた。
「貞治は変な土産を持ってこなかったか?」
コツンと戸を叩く音がして、文字を追うことに集中していた乾は瞬きをした。
振り向かずとも気配で分かる相手は、静かに書庫へ入ってくると乾の前に腰を下ろす。
「あの強烈な臭気がする丸薬は青学へ持って帰ってくれ」
「遠慮するな」
「死人が出ては取り返しがつかない」
「失礼だな。死人も生き返る絶大な効果だ」
相変わらずだな、お互いが思う。
元服前の僅かな期間だが、柳は乾家に預けられていたことがある。
国は違えど、寝食を共にした幼馴染の二人だ。
少々の憎まれ口は挨拶のようなもの。
「で?お前が突然に訪ねてくるのは、いつもの事だが。何を求めにきた?」
乾は他国の情報を集めて分析するのが仕事だ。
それは国益と趣味の両方を兼ね備えており、今度の旅も理由はそこにあると思った。
だが、手にした書物を閉じた乾は淡々と答える。
「ただの物見遊山だ」
「今更か?」
この国のことなら、あらかた見て知っているだろうにと柳の声色が呆れを含む。
乾は手元から視線を上げ、初めて正面から柳を見た。
「妻と旅をしてるんだ」
今度ばかりは柳も驚き、唖然として乾を見つめ返す。
常に冷静な友の驚く顔が見られたことに、乾は満足げに微笑んだ。
なにもこのような埃っぽい所でと、茶を出した女中の妙が笑うが、二人は気にしない。
客間より書物に囲まれている方が落ち着くのは似た者同士だ。
一口、新しい茶を飲んだ乾が切り出す。
「手間をかけさせた詫びと礼を言いたかったのが一つ」
「詫びと礼なら文で受け取ったぞ」
「蓮二は簡単に受けてくれたが、そう容易いことでなかったことぐらいは想像できる」
遊女に柳家の名を与えてくれたのだ。
地位のある家に名ばかりとはいえ遊女を入れることが、どれほど大変なことか乾とて分かる。
「蓮二だから頼めた。感謝する」
面と向かって言いたかったのだろう、その気持ちだけで十分だと柳は頷いた。
「もう一つ、できたらに蓮二を会わせたいと思った」
「そうか。・・・いらぬ気を遣わせたな」
その言葉で全てを察した柳は、宿屋に残されているのだろう乾の妻を労わった。
もとが遊女であるがゆえに遠慮した。
他国のことなのだから過去は誰も知らないとは思うが、もしもの時がある。
名家である柳家に遊女であった女が出入りしていると知られた日には迷惑がかかる。
ましてや養女にしたなどと公になったら、どれほど名を汚すだろう・・・と。
「あれは気持ちが細やかで、優しく、臆病だ」
「ふむ」
「蓮二の奥方にも嫌な思いをさせたくないと言ってね」
「そのようなことはないと思うが」
答えた柳だが、同じく名家の出身である妻には理解できない身の上であることは確かだ。
遊女であった乾の妻と会わせた時、武家の家に生まれ育った妻が、どのような心持ちになるかまでは分からない。
そう考えると一人で訪ねてきた乾の判断は正しかったのだろう。
下手をすればお互いが傷つくのだから。
「が言うんだ。いくら美しい衣に身を包んでも、汚れた身は変わらない
きっと奥方様には嫌悪されてしまうだろうとね
すみません汚れていてと涙ながらに謝られて、ほとほと困ったよ
その汚れた身とやらを慈しんでいるのは俺なんだがと」
「貞治・・・」
僅かな話を聞くだけで、妻を想う友の気持ちが伝わった。
乾が遊女を娶ると知った時、その覚悟に思いを馳せながらも物好きなことだと思った。
他に幾らでも相応しい者がいるだろうにとも思ったが、口にはしなかった。
存外に頑固な乾の性格を知っていたから。
それほどまでに惚れたか。
柳は唇に笑みを浮かべた。それは是非、会ってみたいと思う。
「柳の家から嫁に出した娘だ。遠慮せず来るといい
まずは俺が会いに行こう。そこで我が家に招けば来やすくもなるだろう」
善は急げと立ち上がる柳を見上げ、乾が眩しそうに瞳を細める。
心から信頼できる友が存在することに感謝して、乾もまた腰を上げた。
お慕いしております〜乾編〜 変化 (前編)
2012/05/19
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