「お慕いしております〜大石秀一郎編〜」 参
溜息をつくと幸せが逃げると誰かが言っていた。
それが本当ならば一生分の幸せが数日で消えてしまった気がする。
ふと読み返せば文字が間違っており、大石は溜息と共に墨で線を引く。
引いてはみたが訂正だらけの書付を人に見せるわけにもいかないかと思い直し、
また溜息と共に新たな紙を手に取った。
「あれは、どうしたんだ?」
遠目から見ていた手塚が傍らの不二に訊ねる。
仕事にならない大石のぶんまで働いている不二だか、そう苦にしたふうもなく笑みを浮かべた。
「春が来たと思ったら、次は吹雪がきたって感じ?」
「なんだ、それは」
「自分が縁談を断った相手に断られたらしいよ」
意味が分からないと手塚が眉根を寄せる。
あまり意地悪をすると後が怖いので、不二は事の次第を手塚に語った。
は言った。
『わたくしと大石様の人生は既に違ってしまったのです
貴方様には相応しい方がいらっしゃるはず。わたくしのようなものに情けをかけてはなりません』
静かな口調ではあったが、きっぱりと言い渡されてしまった。
大石は己の気持ちを上手く言葉にすることもできず、唇をかむようにしての顔を見ていた。
その瞳が涙で揺れていることも気づいていながら、何も言えずに小さな背中を見送ってしまったのだ。
根性なしと罵ったのは菊丸だった。
追えなかった大石と去っていった。両方の気持ちが分かる気がした不二は黙って聞いた。
乾は他人事のように聞いていたが、大石には内緒で家の周辺を探っているようだ。
話を聞いた手塚は相変わらずの無表情だが、心あらずの大石を心配していることは分かる。
眉間の皺が三割増しなのに側近たちは気付いていた。
長い廊下を歩いていると遅咲きの白梅が目に入る。
途端に胸が締めつけられて、どうにも足が進まなくなる大石だった。
嫌われて断られたのではないと思う。
そう思えるのは、背を向けた瞬間のの瞳が涙で濡れていたから。
だったら引き止めれば道は開けたかもしれない。
それが出来なかったのは自分自身に迷いがあったせいだ。
の言う同情ではないのかと。刹那、自分の気持ちを疑ってしまった。
もっと熟慮して答えを得れば良かったのだが、突然に舞い降りてきた恋に大石は免疫がなかった。
急激に膨れあがった感情に己の心が分からず混乱したのだ。
添えないと思えば、恋しさが増す。
不幸を知ったことは切っ掛けであり、今は唯・・あの面影が愛しい。
何故、あの昔にとの縁談を受け入れなかったのかと後悔した。
そうすればと共に温かな家庭を築き、今頃は子どもたちに囲まれて幸せに暮らしていたかもしれないのに。
擦れ違ってしまった時は戻らない。
それが悔しくて、大石は立ち尽くすしかないのだ。
「大石は馬鹿だ」
「真面目だからね。考えすぎちゃうんだよ」
菊丸の小さな呟きを聞いて、不二は宥めるように背をたたいた。
一番の親友だからこそ菊丸は憤り、心配し、何とかしたいと思っている。
それは大石を信頼する者たちに共通する想いだろう。
「の家に殿から圧力かけてもらって強引に娶るとか」
「まぁ・・可能だけどね。でも、手塚は首を縦に振らないよ。それを大石が受け入れるとも思えない」
「そうだよね」
肩を落とす菊丸だって本当は無茶だと分かっている。
だけどこのまま終わらせていい恋でもないと思うのだ。
いつも他者ばかりを優先して、自分の幸せを後回しにしてきた友だ。
誰より優しく、誰より気遣いができる、良い友なのだ。
「大石のどこに不満があるんだよ。あんなイイ奴、国中を探したっていないのに」
怒りが友を受け入れなかったに向かってしまいそうだ。
「だからだよ、英二」
「え?」
不二は座した縁側の向こうに咲く梅に視線を向けた。
「殿は大石ほどの男に自分は不釣り合いだと思ってしまったんじゃないかな
一度は嫁いだ身だ。それは珍しいことではないけれど、大石は初婚だろう?
それは大石さえ良ければ問題ないけど、殿は長く嫁いでいたのに子を生していない
まぁ亡くなったご主人は体が不自由だったというし、夫婦仲も良くなかったらしいから何とも言えないけど
大石には跡継ぎが必要だし、聡明な女性なら大石家の行く末まで考えたのかもしれないね」
「そんな・・・」
途端に菊丸が眉を下げて情けない顔をする。
不二は穏やかに微笑んで頷いた。
「根っから大石が優しい人間なのも知っていて、だからこそ一時の同情で道を誤ってはならないと
そう大石に言った殿だって、きっと辛かったと思うよ」
大石は縁側に続く廊下の角にある柱に身を隠し、不二と菊丸の会話を聞いていた。
断りを口にした時のは笑んでいて、言葉に迷いがなかった。
だが瞳はうっすらと潤み、その瞳で大石を見つめていた。
「殿・・・」
うつむいて唇をかんだ大石が拳を強く握って、次には開いた。
ぐっと目に力を入れて前を向いた時だ、庭から長身の影が伸びてきた。
「大石はいるか?」
乾に声をかけられた不二と菊丸が腰を浮かそうとしたところへ、廊下の角から大石が姿を現した。
「なんだ、乾」
「大石、急げ。殿は出家のために東の尼寺へ発ったらしい」
淡々とした声色だが、常より早口の乾が一気に言った。
早く行かなきゃと大石を振り向いた菊丸。
その目が見たのは、駆けていく大石の背中が廊下の角に消えるところだった。
城内を走るなと常々下の者に言い聞かせていた大石だったが、そんなものは頭から消えていた。
擦れ違った海堂にぶつかりそうになって、彼の抱えていた紙が散らばるのにも足が止められない。
何をどうするなど冷静に考えることもできず、ただに会わなくてはと思うのだ。
表に出て、そのまま門に向かったのだが方向を変えた。
一刻も早くと思い、馬屋に駆ける。
ただ事ではない様子に擦れ違う者たちが大石の名を呼ぶのだが、そんなものに構っていられなかった。
「馬を借りるぞ」
馬番の返事も待たずに馬を出そうとする大石の背に、また名を呼ぶ者があった。
だが、今度は無視できない。
殺気さえ感じられる目で振り返った大石の後ろには、馬を引く手塚の姿があった。
「殿・・・申し訳ありませんが」
「俺の馬に乗っていけ。これは足が速い」
視察から帰ってきたばかりの手塚だったが、理由も聞かずに愛馬の手綱を大石に差し出した。
驚きに目を見開いたまま動かない大石の手を取り、手塚が手綱を握らせてやる。
「大事なのだろう?城のことなら気にするな」
全幅の信頼を置く大石なのだから、理由など聞く必要もないと手塚は思っている。
その想いを渡された手綱に感じ、大石は熱くなる喉で声を振り絞った。
「すぐに戻ってまいります」
「ああ」
大石は手塚の愛馬にまたがり、主に深々と頭を垂れてから強く手綱を引いた。
お慕いしております 大石編 参
2012/02/14
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