「お慕いしております〜大石秀一郎編」 肆










「姉上、本当に行かれるのですか?姉上が私たちに気を遣うことなどないのですよ」



歳の離れた弟は今にも泣きそうな顔での傍を離れない。
早くに母を亡くした家では、が母親代わりとなって弟を育てた。



「妻も娶った男が情けない声を出すものではありませんよ」


「お願いです。もう一度だけ考え直してください
 姉上はまだ十分にお若いのです。出家などせずとも、嫁ぎ先は山ほどあるはず」



弟の言葉に浮かんだ姿。
その優しい面差しを掃うように、は首を左右に振った。



「貴方は貴方の大事な人を慈しみ、守るのです。何処にいても私は貴方の幸せを祈っていますからね」
「姉上・・・」



とうとう男泣きする弟の背を宥め、は僅かな荷物をまとめたのだった。



良い嫁ぎ先を探してやると父は言った。
いつまでも此処にいてくれたらいいと弟夫婦も言ってくれた。


その気持ちだけで充分だとは思うのだ。
結婚は女の幸せですよと教えてくれた母は居らず、幸せとは何だったのかと問うこともできない。
家に残れば、いつかは弟夫婦の足枷になるだろう。



婚家を出された時、すでに出家は決めていた。
ただ少しだけ生まれ育った家に戻って、己の心を宥める時間が得たかった。


おかげで男らしく成長した弟の婚礼を見届けることができた。
父をはじめ、皆が温かくを迎え入れてくれて、労い、甘えさせてくれた。
変わらぬ山々や清らかな川の流れ、土手を走る子どもたちと揺れる雑草、どの景色もには懐かしく優しかった。


青学は豊かで美しい国になったと思う。
城下の者たちも明るく、町に活気が溢れている。


あの方が支えてきた青学は素晴らしい国へと成長した。
それだけでも、は嬉しかったのだ。



『私の妻に・・・』



あの声は、夢でなかったか。
求婚されて嬉しくないわけがなかった。


幼い時、祖父に連れられて出かけた梅園で大石と会ったことがある。
大石は覚えていないだろうが、祖父同士が知り合いだったので挨拶を交わしたのだ。
利発そうな受け答えと朗らかな笑顔が印象的だった。


人見知りをするが祖父の脇で俯いていると、気付いた大石が懐から飴を出してきた。
梅園の見物客目当てに並んだ露店で買ってもらったものだろう。


どうぞと微笑んで飴を差し出した手のひらには、たくさんのマメができていた。


惜しみもなく飴を分け与えてくれた人の手にあったのは、たゆまぬ努力の証。
後になって、あれは剣の鍛錬によってできたものだと知った。



その後も成長していく大石の姿をは見ていた。
城で女手が必要になった時など、役職を持つ者たちの妻たちが手伝いに出る。
病弱だった母の代わりとして他の奥方たちに混ざって手伝っていたは、何度となく城で大石を見かけていた。


早くから将来を約束された地位にいながら奢ることなく、誰にでも丁寧に対応する。
理知的でいて、朗らか。そして献身的に若い主を支えようとする姿も好ましかった。


の初恋だった。


祖父から縁談の話を聞かされた時の喜び。
その後の悲嘆。


縁がなかったのだと祖父が慰めてくれた。
手が届きそうだったからこその苦しみを呑みこみ、諦めきれない己を叱咤して他へ嫁いだ。


なかったはずの縁が・・・今頃どうしてと思う。
考えつくのは大石だからこその理由だ。


が実家に戻った経緯を知り、とても同情的だったと父が話していたから。





小さな風呂敷包みを抱き、一歩一歩を大切に歩く。
頬に触れる黒髪も落としてしまえば、もう伸ばすことはないだろう。



様、今からでも遅くありません。どうぞお考え直し下さいませ」



もう何度目かも分からない言葉を下女が繰り返す。
長く家に仕えてきた下女は「道中が心配ですから」と無理についてきた。



「ご苦労ばかりされてきて、そのうえ出家では・・・亡くなった奥様が泣いておられます」
「泣いているのは、あなたですよ。そのように泣かれては辛くなりますから。ね、泣きやんで」



は困り顔で綺麗に織られた布を下女に差し出した。
侍女は鼻をすすりながら首を振り、懐から手拭いを取り出し涙を拭う。



様は優しすぎるのです。何事も自分より他の者を優先される」



いいえと今度はが力なく首を振った。



「わたしは自分勝手な酷い女なのですよ」
「なにをおっしゃいます」


「本当に。良くしていただいたのに妻としての役目も果たせず、失意のうちに夫を死なせてしまった」



遠くの空を見ながら、思い出すようにが呟く。


見目が気に入ったと求婚され、それなりの金を積まれて嫁いだのだ。
長患いの母に使った薬代で傾きかけていた家は、その金で助かった。


夫の酒癖や粗暴な言動などは耐えて当然だったはず。
体が不自由になってからの夫はの顔を見るたびに吐き捨てた。



『お前のその顔、まるで人形だ』



感情を殺して生きるうちに、は夫の前で表情を失くしていたのだろう。



「あの人が亡くなった時、わたしは安堵したのです。やっと解放されると」



下女は痛ましいものでも見るような目をして唇を震わせた。



「いいえ・・様は。様は悪くないです
 本当に自分勝手で酷い人なら、出家などなさらないはずですから」



下女の言葉に、は困ったように微笑んだ。
そして『ありがとう』と下女の心を汲んでくれる。


だからといって止めるとは言ってくれないを前にして、また下女は涙を拭うしかなかった。





尼寺は小高い山の上にある。
長く続く石段の頂点には古めかしい門があり、あの奥に足を踏み入れたら二度とは戻ることがない。


最後の最後まで見送りたいと泣く下女を宥め、は何度も振り返る彼女に手を振った。
やがて小さくなった背中が曲がった小道に消えると、ひとつ息を吐いた。


ゆっくりと石段を振り仰ぎ、その先にある古い門を見つめる。


と、甲高い鳥の声が聞こえた。
羽ばたく鳥が頭上を斜めに横切っていく。


は暫し足を止め、小鳥が飛び去った空を眺めていた。





とぼとぼと足を運ぶ下女は、遠くから聞こえてきた音に歩みを止めた。
俯いていた顔を上げると前方から恐ろしいほどの勢いで何かが近付いてきている。
土煙が白く舞い、その中央から荒々しい蹄の音をさせて馬が疾走してくるではないか。


恐怖を感じた下女は慌てて道の端により、身を小さくした。
その僅か後。



「ひっ」



信じられない速さで横を馬が過ぎていき、その風圧に思わず下女は頭を押さえてしゃがんだ。
もうもうと立ち上る乾いた土に口元をおさえ、涙目で振り返った先。
馬は下女がたどってきた道の向こうに小さくなっていく。


瞬きする間の出来事に、下女は唖然と立ち尽くすしかなかった。




















「お慕いしております〜大石秀一郎編〜」 肆 

2012/02/25




















戻る     お慕いしておりますTOPへ     次へ