「お慕いしております〜大石秀一郎編〜」 伍
一歩、一歩が、段々と重くなる。
もう幾つ、この石段を上ってきたのだろう。
迷う者に最後の時間を与えるためなのか、尼寺へと続く石段は長く、きつい。
息が弾んで、ついと後ろを振り返りたくなる。
だが、は振り向かなかった。
振り向いて己の歩んできた石段を見るのが怖かった。
上った数だけ、幸せを願う人たちとの世から離れてしまっているに違いない。
未練がないと言えば、嘘になる。
こんな自分を妻にと言葉にしてくれた大石の優しさが、今もを切なくさせる。
だけれど・・・娘だった己が純粋に慕った人だからこそ、自らの手で一つの不幸も与えたくはなかった。
遠くから大石の姿を見つめて胸を高鳴らせていた。
それはもう、今のではないから。
半分は過ぎただろうか。
周りの景色も変化し、心なしか空が近くなった。
見上げていた小さな門が、徐々に存在感を増している。
「もう少し」
誰に言うでもなく呟いて、は宥めるように胸をおさえた。
ふと、耳に届く地鳴りのようなもの。
感じはしたが、は歩みを止めなかった。
慣れぬ石段に難儀しながら、ゆっくりと上っていく。
近づいてくる音は馬の蹄だ。
さまよっていたの思考は知らずに蹄の音へと傾き、ただ事ではない荒々しさを感じた。
何事だろうか。
国境の嫁ぎ先では、他国の侵入や諍いが起こるたびに早馬が駆けたものだ。
その不穏な蹄の音が思い出され、の足が遅くなる。
考える間に蹄の音は大きくなっていき、背後で甲高い馬の嘶きが響いた。
それに思わず振り向いてしまったは、想像もしていなかった姿を認めて目を見開く。
「殿!!」
よく通る声が我が名を呼んだ。
信じられない。は石段の中央あたりに立ち尽くし、瞬きも忘れて声の主を見下ろした。
「大石・・・様、なぜ」
音にならない呟きは、階下の大石には届かない。
だが、その表情での戸惑いを見て取った大石は、大きく息を吐くと馬から降りる。
荒い息を繰り返す馬の首を軽く撫で、それから真っ直ぐな視線をに向けた。
「殿、あなたと俺の人生が違ってしまったのは事実だ」
大石は随分と距離のある人を見上げ、大きな声で呼びかけた。
ここで逃せば、間違いなく二度とは会えない人になる。
緊張で手綱を握ったままの手が汗ばむのを感じた。
だが怯んでなどいられない。
風のように走る馬の背で、大石は何度も何度も己の心に問うてきたのだ。
「俺は後悔した。あの時、あなたを妻にしていたならばと」
いいえ、違うとは首を横に振る。
大石が後悔する理由など何もない。
納得して嫁いだのはであり、そこで役目を果たせなかったのもだ。
不幸なことだと優しい家族は慰めてくれたが、それを招いたのは己自身の心だと知っている。
だから傍から見て不幸のように思えたとしても、それは自業自得というもの。
大石が悔やむようなことではない。
しかし、大石は目をそらさずに続けた。
「同情や償いの気持ちではないのです
あの時にあなたを妻に迎えていたなら、きっと幸せに暮らしていただろうと
今頃になって俺は酷く後悔しているのです」
自分勝手は承知の上で言いますと大石は前置きした。
「この年になって、もう後悔は御免なのです
ああすればよかった、こうすればよかったと残りの人生を悔やんで生きるより
あなたの気持ちをないがしろにしてでも、俺は殿が欲しい
だからお願いです。その石段を下りてきてください」
は何をどうしていいのかも分からず、混乱のままに立ちすくんでいた。
上に進めば仏に仕える身となり、下に降りれば・・・
本当は手綱など放り投げて石段を駆け上がりたい大石だ。
最後の手段は実力行使で止めるしかないと覚悟は決めたが、できることなら自らの意志で降りてきてほしいと願う。
「殿は俺の顔を見るのも嫌なぐらい嫌いですか?」
「そ、そのようなこと」あるわけがない。
瞳の奥が熱くなる。
同情でないと言うなら、自分のようなものを何故に欲しいと言うのか分からない。
の心の声が届いたのか、瞳を和らげた大石の声色が優しくなった。
「白梅の下で、あなたに一目惚れをしたのです
まぁ・・初めて会ったわけではないから、正しくは一目惚れではないのかもしれませんが」
言って、大石は照れたように鼻の頭をかく。
その仕草は初恋を知った若者のように初々しい。
「お互いに年を取った。そして、一度は別れた道が、再び出会った
俺は今の殿に出会って、今のあなたに惹かれた
亡くなられた夫が忘れられないと言うのなら、それでもいい
すべてを抱えたまま俺のもとにくればいい
俺は今のあなたをお慕いしているのですから」
春とはいっても、まだ風は少し冷たい。
瞳から零れ落ちる涙は顎を伝い、風と共に散っていく。
たくさん考えて、もう決心は変わらないと家を出た。
なのに、どうだろう。寺の門を背に、足が動かないのだ。
大石様に相応しい方は、他に幾らでもいる。
自分に言い聞かせてきた言葉が喉から出ない。
出るのは嗚咽まじりの堪えた声だ。
「殿、どうか。この身勝手な男を哀れと思うなら」
大石は石段の下からに向かって手を伸ばした。
伸ばしたところで天に伸ばすが如くの距離がある。
それでも大石は伸ばした手を下ろすつもりがなかった。
小さな風呂敷包みを胸に強く抱き、は迷子のように泣く。
行くことも、戻ることもできない。
ただ真っ直ぐに己へ伸ばされた手が、春の陽射しを受けて白く輝いていた。
お慕いしております〜大石秀一郎編」 伍
2012/03/03
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