『お慕いしております 〜幸村精市編〜』 肆
「退屈でございます」
きっぱりと言い切った妻を前に、精市は「そうだよねぇ」と淹れたてのお茶を口に運んだ。
今日のは鮮やかな牡丹の刺繍がされた打掛を着て、なかなかに美しい。
しかしながら当の本人は、重い、暑い、動きにくいと不満たらたらなのが見てとれた。
方々から幸村家の正室には挨拶をと人がやってくる。
輿入れして暫くは、その相手で一日が潰れていた。
それもひと段落すると、まぁ正室という仕事は暇なのだ。
厨に入れてもらおうとして断られ、せめて室の掃除をと動けば侍女に止められる。
庭の草でも刈ってやろうかと腰をあげれば、どうぞおやめ下さいませと若い侍女に泣かれてしまった。
では何をすればいいんだと憤慨すれば、差し出されたのが物語の束。
暇つぶしにと紐解いてみれば、こんな馬鹿とだけは知り合いになりたくない最低な浮気男の生涯だった。
読めば読むほどムカついて物語を部屋の隅に追いやったに、侍女は新たな暇つぶしを持ってきた。
それが、琴。
「御方様がお琴を弾かれましたら、きっと殿がお喜びになりますわ」
目の前に置かれた琴を前に、は眉根を寄せた。
琴は嫌いだ。昔から、この女の嗜みともいえる琴が嫌いで嫌いで堪らなかった。
稽古をしたくないがために、よく庭の木に登って身を隠したものだ。
周囲も『姫の琴は置物』と諦めて、今さら弾けなどと口にする者はいなかった。
私が琴を弾いたら空飛ぶ鳥も落ちかねないぞ。
そう自覚しているは、頭痛がすると言って琴を片付けてもらった。
ますます、やることがない。
「お庭の鯉でもごらんになりますか?手をたたくと寄ってまいりますよ」
確かに手をたたくと寄ってきた。
他に何か芸はないのだろうか。例えば、飛び跳ねて宙返りをしてくれるとか。
「紅をお選びになりますか。それより反物がよろしいでしょうか?今から秋のお着物を仕立てて・・・」
袴が欲しいな。この前、山の中で木の枝に引っかかって破ってしまったんだ。
繕って持ってくるつもりだったのだが、嫁入り道具の中から抜きとられてしまっていた。
ああ、刀の手入れがしたいなぁ。
あれは暇つぶしにもなるし、精神統一にもいいのに。
の愚痴に、精市は腹を抱えて笑っている。
ひーひーと笑って、飛ぶ鳥をも落とす琴の音を聞かせてくれと言いだす始末だ。
「やはり離縁していただき城に戻ろうかと」
「まぁまぁ、そう言わないで。後少しで妹も片付きそうだから、それまではね」
「まだ周囲は認めぬのですか?」
「そっちは話をつけてあるんだが、とうの真田がね」
鼻の頭に皺を寄せ、子どものような表情を精市が見せる。
家臣に妹を嫁がせる事を自分がを娶ることで認めさせたのだ。
この婚姻がうまくいかない限り、そうそう離縁もできない。
「姫を真田殿の寝所に放り込んでみるとか」
「面白そうだけどね。真田は据え膳も食わずに返してくるよっていうか、君は大胆な事を言うね」
「申し訳ございません。遠慮のない兄ばかりの中で育ちましたゆえ」
悪びれもせず頭を下げるに、精市は表情を緩める。
「俺としてはさぁ『どうぞください』って頭を下げて欲しがってもらいたい。大事な妹を下らせるんだからさぁ」
「それは姫としても嬉しいでしょうからね」
「あれ?君も女心は分かるんだ」
精市の言葉には整った眉を上げ、意外そうに答える。
「そんなものに女も男も関係ありませんでしょう
誰かに心から求められるというのは、なにより人として嬉しいものですよ」
の返答に瞠目した精市だったが、次には綺麗な笑みを浮かべる。
「とにかく今一番に俺がしなくてはならないのは、君に退屈させないことだね」
「いえ…それほど優先順位は高くないかと」
「いやいや、離縁されると困るからね
え〜と、まずは書庫を案内しよう。兵法でも歴史でも、君が好きなものを読むといい
それから明日は城下へ買い物に出かけよう。袴を仕立ててもらいにと君に合う刀を探しにね
ついでに馬の鞍も見とこうかな。全部が揃ったら、一緒に遠乗りでもするか」
「まことですか!」
精市の提案にが目を輝かせる。
向かい合う二人の間を爽やかな初夏の風が吹いていった。
お慕いしております〜幸村精市編〜 肆
2010/05/13
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