real 5
その少女は天才的にピアノが上手かった。
『ピアノの神様に愛されて生まれたんだろうね』
先生が俺に言った声の音色まで思い出せる。
俺は息を止めるようにして少女の演奏を聞き入った。
負けるのは大嫌いな俺だが、この時ばかりは敵わないと素直に思ったものだ。
ピアノを教えてもらっていた先生の家で出会った少女だった。
聞けば俺と同い年だという。
その先生は有名な音大の教授だった。
普通なら子供にレッスンなどつける立場ではないが、父親の関係で俺のレッスンを見てくれていた。
俺以外には小学生などいないと思っていたのだが、他にも一人だけいたんだ。
殆どのレッスンを自宅で受けていた俺は、
先生の都合がつかない時だけレッスンを受けに出向いていたから他の存在を知らなかった。
『景吾君、すまないが少し待ってもらってもいいだろうか。
仕事の電話がある予定でね、打ち合わせだけで直ぐに済むから。』
『構いません。それで・・あの子は?』
『彼女のレッスンはとっくに終わってるんだ。
けれど、もう少し弾きたいというから景吾君が来るまでと思ってね。
興味があるのなら話しかけてみてごらん。』
先生が部屋を出て行くと、俺は真っ直ぐに神に愛されているという少女のもとへ向かった。
そして曲を弾き終わり、ホッと息をついた背中に声をかける。
振り向いた少女は雪のように白い肌をしていた。
『お前、上手いな。』
『え?』
『もっと聴かせろよ。』
何を話したのか・・・細かくは憶えていない。
だが俺たちは肩を並べてピアノを弾いたんだ。
先生が戻ってくるまでの暇つぶしだと俺が誘った気がする。
近くで本物の音を確かめたかったんだ。
主よ、人の望みの喜びよ
これで思い出してしまった。
「篠崎先生、ご無沙汰しております。跡部です。」
「景吾君か?久しぶりだね。どうした?」
「先生に伺いたいことがあってお電話しました。
以前、先生の所にレッスンを受けに来ていた俺と同じ歳の少女のことです。」
「君と同い歳・・・?ああ、それは」
「彼女の名前、ではないですか?」
俺は予想通りの答えが耳に入ってくるのを目を閉じて聞いた。
「彼女がピアノから遠ざかろうとする理由を先生はご存知ですか?」
問いながら、俺は窓の外を自由に飛んでいく鳥を目で追っていた。
翌日、俺は朝練のロッカー室で忍足を呼び止めた。
部員たち、それも共に戦うレギュラー達に嘘はつくまいと前から思っていた。
特に信頼している忍足に嘘はつきたくねぇ。
「のクラスを教えてくれ。」
「の?なんでや?」
「話したいことがある。」
「話?」
メガネの奥の瞳が複雑な色で俺を映している。
後ろで宍戸が鳳と楽しそうに話している声が、やけに耳についた。
「どうして・・・跡部が?何を?」
「俺は小学生の頃、に会っていた。
一度だけで名前も知らなかったが、アイツの弾いた音は覚えている。
何故なら俺がピアノをやめた理由の一つだからだ。
あれだけは、どう努力しても敵わねぇと思った。もって生まれたものが違うんだってな。
そんなアイツがピアノをやめようとしている。
好きなくせに、弾きたいくせに逃げている。
それが俺には許せない。」
忍足は唇を薄く開いたまま唖然として俺を見ていた。
俺も忍足から視線を逸らさない。
「話したいんだ、忍足。」
暫しの間を置いて、忍足がボソッとクラス名を口にする。
分かったとロッカーの扉を閉めれば、脇から忍足が俺の肘を引いた。
「な、俺から話してもええけど?」
「伝言できるような話じゃない。お前には分からないことだ。」
「けど、」
「お前が不審がるのも分かる。
だが自分を突き動かすものがあれば、それを確かめずにいられないのが俺だ。分かるだろう?」
「それが・・・なんか?」
忍足は俺の肘に指をかけたまま、掠れた声で訊いてくる。
口の中がカラカラだった。
俺は無理矢理に唾液を飲み込み声を出す。
「そうだ。」
バタンと、誰かがロッカーの扉を閉めた音がした。
わかった。
昼休みに俺が部室へ連れてくる。
せやから・・・俺も一緒に。それでもええか?
忍足が低く響く声で訊いてきた。
もちろんと、俺は頷いた。
昼間の部室は当然静かだ。
いつもは部員達が寛いでいるソファーを横目に俺は事務椅子を軋ませて座っていた。
するとボソボソと低い声が近づいてくるのが聞こえてきた。
金属音と共に部室のドアが開き、外の陽射しと共に忍足が現れる。
その後ろには小さな体が見え隠れしていた。
「連れてきたで。」
「悪かったな。」
それは忍足に向かってかけた言葉だった。
忍足の後ろで隠れるように立っているの目を見れば、途端に俯いて視線を逸らされた。
「座れよ。」
「、そこのソファに」
「い・・いいの。立ってる。」
「別に立っててもいいさ。だが逃げるなよ?」
俺の言葉に顔をあげたが泣きそうな顔をしていた。
忍足は俺ととを交互に見ては物言いだけに唇を動かそうとしたが音にならなかった。
「昨日、篠崎先生に電話した。」
明らかに見て分かるほどが動揺する。
隣の忍足が慌てての背中に手を添えた。
は震える唇を押さえるようにして俺を見ていた。
「お前、ストレスから失語症になった兄貴のためにピアノをやめたんだってな。
原因は天才的才能を持つ妹への嫉妬ってとこか?
馬鹿馬鹿しい話だ。心の弱い兄貴を持つと苦労するな。
だがな、もっと馬鹿馬鹿しいのは・・・そんなことでピアノを捨てちまおうとするお前だ。
捨てられもしねぇくせに、半端なことすんなよ!」
「そ・・そんなことない、私はもう」
「もう、なんだ?やめると言っといて、音楽室で何時間も弾いてるんだってな。
音楽の鈴木先生に聞いたんだぜ?吹奏学部の練習がない時はずっと弾いてるってな。
それでも足りなくて家族の目を盗んで弾いてるんだろ?
じゃなけりゃあれだけのコンディションを維持できるはずがねぇ。
だが、本当はまだ足りないはずだ。違うか?」
「違う・・・」
「違わねぇ!弾きたいなら迷わず弾けばいいだろう?」
「ちょっ、跡部!そんな大きな声を出さんでも」
俺の大きな声が部室に響き、忍足がを庇うように前へ出た。
その後ろでが自分の顔を両手で覆う。
俺は目の前に立った忍足の肩越しにを見ながら言ってやった。
心に届くよう、ゆっくりと。
「人には、どう努力しても及ばないものってのがある。
それを知ることは辛いし、どうしようもないことに絶望もするだろう。
だがな足掻いて苦しむことは決して無駄じゃないんだ。
無駄なんてもの何もない。無駄にしてしまうのは自分が弱いからだ。
お前がピアノをやめて兄貴は喜んだか?
喜んで弾き続けてるとしたら救いようもない大馬鹿だろうから、お前が気にかけてやるほどの価値もない。
だが・・・お前からピアノを取り上げてしまったことを兄貴が後悔してるとしたら?
同じピアノの道を歩むものなら、お前の才能がどれぐらいのものかぐらいは分かってるはずだ。
ましてや近くにいて分からないはずがない。嫉妬もしただろう。うらやみもしただろう。
でもな、お前がピアノをやめることは絶対に兄貴のためにはなってない。
俺だったら・・・・お前からピアノを奪う罪に耐えられない。」
「でも、」
俺は忍足の肩を掠めるようにして脇を通り過ぎ、の前に立った。
これをどうしても伝えておかなければならないんだ。
「篠崎先生が言ってたんだ。
去年お前の兄貴が篠崎先生の所を訪ねてきて、
頼むからもう一度妹のレッスンを見てやって欲しいと頭を下げてきたそうだ。
先生は自身が教えて欲しいとくるならいいが、
本人にやる気がなければどうしようもないと断わったらしい。
自分のせいだからと・・・もしも妹が望んだときには受け入れてやって欲しいと
何度も頭を下げていったと先生が話してくれた。
お前、兄貴にも弾けと言われてるんじゃないか?
なのに頑なに避けている。違うか?
それは優しさじゃない。
負けた人間に勝者の情けほど残酷なものはないんだ。」
「跡・・部君」
「もういいんだ。お前はお前の好きな道を行けよ。
俺は・・・お前の音が聴きたい。」
瞳から涙を零しているが俺を見上げた。
今まで辛かったなと俺はの頭を軽く撫で、そのまま部室のドアに向かう。
「忍足、後を頼む。」
冷たいドアノブに手をかけ後ろを見ずに言った。
忍足の返事も待たず、俺は二人を残して部室を後にした。
『real』 5
2007.04.16
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