さよならからはじめよう 〜真田編〜 6
恋人を探して飛び出した玄関。
外来でも病棟担当でもないフリーの日ではあるが、本来は医師が外に出るのはマズイ。
分かってはいたが、今・・・優花を捕まえなくては後悔すると思った。
昔の恋も、目の前にいるのに捕まえることを躊躇った。そして、失った。
同じことは繰り返したくない。だからこそ、今・・・捕まえたい。
「真田だ。何か変わったことはないか?すまないが・・・少し外に出ているんだ。
医局に清水君と柳田先生が残ってるし、何かあれば携帯に電話してくれるだろうか?
ああ・・・遠くにいはいかない。敷地内にはいるから、ああ。よろしく頼む。」
優花の姿を探し歩きながら、病棟のナースに連絡をしておく。
オペもない今日は、病棟も落ち着いているようだった。
院内専用のPHSを握り締めて、強い日差しが射すアスファルトの上に立ち真田は裏の駐車場を見渡す。
秋とは呼べないような容赦ない熱が肌を焼いていくのを感じる。
車のボンネットがいくつも重なって光りを反射している中に、ふわっと何か動いたのが見えた。
真田は走り出す。それは、自分がテニスの壁うちをしていたあたりだったからだ。
優花は、その華奢な背中に日差しを浴びながら、
細くて白い手を伸ばし、壁に残るボールの後をなぞりながら泣いていた。
手にした恋は、あまりに儚かった。
夢のように幸せな時間は少なくて、あとは苦悩と悲しみが胸を覆う。
得られない幸せ。
背負ってしまった運命を思うたび・・・ただ泣いて諦めるしかない、そんな自分が本当は大嫌いだ。でも、
ふと後ろに人の気配を感じた。
砂を踏むような靴音に振り向けば、太陽を逆光にした真田が優花を見下ろしていた。
「どうした?何を・・・泣いている?」
「先生、どうして」
「それは俺が聞きたい。ここは陽射しが強い、向こうの影に入ろう。」
真田は優花の腕を軽く掴み、とりあえず影になっている場所へと移動した。
おとなしくついてくる優花だったが、瞳は濡れて、とても傷ついた色をしていた。
跡部が勘ぐったぐらいだ。
優花も、を見て何か感じたのかもしれない、と思う。
の身代わりなどではないと今なら言い切れるが、出会った頃は面影を追っていた、それは事実だ。
過去に心から愛した人だったから、何がしの雰囲気を優花に感じさせてしまったのかもしれない。
そう思うと胸が痛んだ。
だが、愛しているのは優花。欲しいのも優花なのだ。
それは真実だから、ちゃんと伝えたい。
心の中で葛藤しながらも揺るがない想いに、真田は優花の腕を掴む手に少しだけ力をこめた。
病棟の脇に植えられた大きな木の影に身を寄せて、真田はやっと真っ直ぐに優花の顔を見る。
下を向いた彼女の頬に両手を添えて、そっと上を向かせた。
顔色が悪い。陰になっているせいだけでなく、色がない。
眉根を寄せる真田の顔を見て、また優花の瞳が揺れてくる。
「具合が悪いんじゃ、」
「先生、もう終わりにしましょう。」
体調を問う真田の言葉を遮るように、優花は一気に言葉を発した。
瞳に涙を溜めながらも、真っ直ぐに真田を見つめて言う。
「それは?」
「さよならを・・・言わせてください。」
足元がぐらぐらする。世界が歪むような、平衡感覚が失われいくような感覚。
ああ・・・目眩がする、と頭の片隅で思う。
厳しい日差しの中、体調が悪いのに立っていたせいだと思いながら、こんなことにも耐えられない我が身が情けない。
心配そうな恋人の顔を見るたびに、胸が痛くて。
共に居れば・・・この人にも不安を与え続ける。
自分が恐れる死を、大事な人にも背負わせることになるのだ。
ならば、どんなに苦しくても、離れたくなくても、一日でも早く別れることが自分の精一杯の愛なのだと、優花は思った。
言葉の意味を理解した真田が瞳を細めた。
一つ小さく息を吐くと、ゆっくりと首を横に振ってみせる。
「それは・・・できない」
「でもっ、」
「結婚するのが不安なら無理強いはしない。お前が、その気になるまで待てばすむ事だ。」
「待つなんて、そんなこと駄目です!」
「これは、俺の意思。優花といえども決められるものではないぞ。
俺はお前の傍に居る。お前が望まなくても、俺が傍にいたいから・・・居続ける。
結婚も諦めたわけではない。ただ、これは合意が必要なので待つだけだ。
分かるか?誰にも止められない。俺が、俺の意思で優花の傍に居たいと思っているんだ。
心配もする。それは、お前が大事だからだ。
優花が苦しい時は共に苦しみたいし、優花が泣く時は傍に居てやりたい。共に生きていきたい。」
「駄目です」
震える声で呟き視線を逸らした彼女の肩を掴んで、真田は声を大きくして言った。
「優花、逃げるな。俺から目をそらすな。ちゃんと、俺を見て。俺の言葉を聞くんだ。」
やめて!・・・聞いてしまったら気持が揺れる。
その真剣な瞳を見てしまったら、決心が崩れてしまう。
その腕に飛び込んで、縋ってしまいたいと・・・心が叫んでしまうから。
あなたと生きられたなら・・・どんなにか・・・幸せ・・・だと・・
優花の意識が、ふうっと遠のく。
『優花!』 真田が自分を呼ぶ声が、何故かくぐもって聞こえた。
そこで、優花の意識が途切れた。
目覚めて最初に見たのは白い天井。そして、点滴のボトル。
ボトルの先を辿っていくと、自分の左手首へと続いていた。
ここは?
カーテンの向こうから、水の音と金属が重なる音がしてきた。
ああ、分かった。ここ、内科の処置室だ。
見慣れているはずの場所に居心地の悪さを感じながら、規則的に落ちてくる薬液を見つめる。
薄いピンクに染まった薬液の色で『ビタミン剤か』と分かってしまう、長い入院生活で得た知識に溜息が出た。
ボンヤリとした頭のまま、真田はどうしただろうと思った。
白衣を着たままの彼は、仕事の最中に外まで探しに来てくれたのだろう。
駄目だ、精神的に参っている。
急に姿を消せば、心配もするだろうに。
そんなことも考えられないほど、自分の感情で余裕も無くし逃げ出してしまった。
咄嗟に『終わりにしてくれ』などと口走ってしまうほど、不安定になっている。
終わりにするなら終わりにするで、もっとやり方があるだろうに。
彼の目の前で倒れてしまっては、ますます優しい恋人は『放っておけない』と同情するかもしれない。
それでは、駄目。そんな、お情けで彼を縛っては自分が許せない。
自由になる右手で目を覆い、唇をかみ締めた。
そこにカーテンが開く音がして、顔を出したのは内藤医師だった。
一瞬、真田かと身を硬くした優花も長い付き合いの主治医に力を抜いた。
「どう、気分は?」
「すみません・・・ご迷惑をかけて。もう、大丈夫です。」
「迷惑はかかってないけどね。貧血が過ぎると、心臓にも負担がかかるんだよ。
脳に酸素を送るために、フルで働かなきゃならないからね。
ちゃんと体を労わって。あとストレスも良くないんだから、くよくよ悩まないように。」
「はい・・・」
十代の終わりから付き合っている主治医は、
子供に言い聞かせるように話しながらベッドの脇にあった丸いスに腰かけた。
「真田君と付き合ってたんだ。」
「それは、あの、」
「何も隠すことないじゃないか。彼、真面目が白衣を着て歩いているような人間だよ。ウン、いい奴だ。
いつも冷静沈着の彼が君を抱きかかえてね、血相変えて外来に飛び込んできた姿・・・本当に驚いたよ。
いや、彼もさっきまでここにいたんだが。救急が来て、後を頼むと言って飛び出していった。」
「そう・・・ですか。」
ホッとしたように視線を外した優花に、内藤は笑顔のままで言葉を続けた。
「食事が取れないのは暑さばかりのせいじゃないんだろう?何を悩むことがある。
真田君に何の不満があるんだい?ちょっと君より年上だが、たいした問題ではないと思うがねぇ。
それとも、君自身の問題なのかな?分からないでも・・・ないけど。」
「先生は・・・ご存知でしょう?私は・・・普通の体じゃありません。」
「普通の体か。普通って・・・なんだろうねぇ。普通が、そんなに重要かい?
僕にとっちゃあ、君は難しい治療に耐えて、成功もして、その後の経過も良い。
医師としては胸を張ってもいい成功例だよ。
そりゃ、失ったものも多いだろう。完全な健康体だとは言えないかもしれない。
けれど、君は生きている。それが一番大切なことだと思うよ。」
「確かに・・・生きてる。でも、来年は?再来年も生きているという保障はないでしょう?
誰かと約束をしたとき、その約束・・・守れるかな?って、いつも考えてしまう。
その約束の日まで、ちゃんと、生きていられるかな?って。
体調を崩すたび、ビクビクと再発を恐れて・・・そんな私が人並みの幸せを得られるはずがないでしょう?」
「再発を恐れる気持ち。それは、僕だって理解できるよ。
でもね、生きているものはすべて。明日なんてものは分からないんだよ。
僕だって急に心筋梗塞でも起こして、今・・・君の目の前で死ぬかもしれない。
生きている人間、すべて平等に『死』は待っている。
それも、いつ何処でなんて誰にも分からないんだ。
それでも皆、いつか死ぬのを知りながら知らないフリして生きている。
自分に『明日』という『生』があるのを信じて生きているんだ。
ただ、君は『死』に・・・とても近くなっていたから。
他の人みたいに、知らないフリができない。いつも意識してしまう。それは、当然だ。
ね、だからこそだよ。
だからこそ『生きてる』ってことも、強く実感できるんじゃないの?
君は生きている。明日のことなど分からないが、今、君が生きていること。
それが重要なんだ。
求められたのなら、心のままに応じればいいじゃないか。
せっかく生きているのに、何を我慢する必要がある?
よく・・・考えてごらんよ。
僕が言えるのは、これぐらいかな。
さてと。仕事を休むのなら、診断書を書いてもいいけど・・・どうする?
真田君は休ませたいと思ってるみたいだったがね。」
優花は両手で顔を覆ったまま、声を殺して泣いていた。
内藤は小さくため息をつくと『点滴が終わるまでに決めてくれれば、すぐ書くよ』と言葉をかけてカーテンの向こうに消えて行った。
流れてくる涙は温かい。
そう、私は生きている。
今、生きている。
幸せは。私の中に・・・あるのだろうか。
どこかの外来から聞こえてくる電話の音。
機械を洗う水の音。
外来の廊下を歩く人々の息遣い、足音。
何もかもが、優しかった。
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