さよならから始めよう 10










この頃、彼女は忙しそうだった。


自宅に電話しても留守電が殆どで、翌日に電話がかかってくる。
そんなことの繰り返しだった。


真田自身も春から後は忙しく、とうまく時間が合わずにいる。


電話で話すたびに『今度は会おう』が合言葉のようになっていて、
真田が話したかった大事なことは言えないままになっていた。



今年の梅雨は気温が低い。
風邪をひいた患者で内科は人が溢れていた。


検査データーを手に、外来を歩いていると紫陽花が飾られてあった。
淡いピンクの花を見ていたら、愛しい人の顔が浮かんだ。


唐突に『会いたい』と思う。


に会いたい。
そう思うと心が止められないほど、会いたい。



真田は医局に戻ると、まとめかけていた論文の資料を脇にどけて電話を手にした。



『もしもし?』
「真田だ。どうした、その声は?」


『風邪・・・ひいちゃった。』
「どんな症状だ?熱は?病院には行ったのか?」


『熱は・・・測ってないの。でも、大丈夫。』
「大丈夫じゃないだろう。今はマンションか?もう仕事が終わる。そっちに寄ろうか?」


『本当に大丈夫。あの・・・友達が来てくれるって言うし。心配しないで。』
「そうか。だが、薬は?」


『・・・友達が買って来てくれると思う。ありがとう、弦一郎。』
「いや・・・」


『なにか話?』
「いいんだ。時間があえば、久しぶりに会いたいと思っただけだ。」


『そう・・・ごめんなさい。今度、元気になったら。・・・弦一郎も体に気をつけて。』
「人の心配をするな。」



クスクス・・・とが笑って『またね』と電話は切れた。



電話を切った後、事務椅子に背中を預けながら真田は考え込んでいた。
巷で流行している風邪は熱が高い。喉も腫れて辛いはずだ。


掠れたの声を思い、眉間に皺が寄る。


しばらく考えていた真田が立ち上がる。
足は内科外来に向かっていた。





外が薄闇になった頃。



真田はマンションのエントランスに立っていた。
手には薬と、水分補給用のスポーツ飲料、他にも喉越しの良さそうなものが入っている。


部屋の呼び出しボタンを押す。


ピンポーン、の後。しばし時間があった。
寝ているだろうか・・・と考えたところで、プツッとスピーカーの音がした。



真田だ。と名乗る前に、聞こえた声。
それに彼は言葉を失った。



『はい』



この声は?思わず表示されている部屋番号を確認する。
確かに、の部屋番号だ。



「真田です」



鼓動が冷たく打つのを感じながら名前を告げた。



『真田か。今・・・は寝てるんだが。』
「跡部・・か?」


『ああ。は風邪をひいてるんだ。』
「知っている。薬を持ってきた。」


『・・・そうか。』



同時に目の前のガラスドアが開いた。
入って来い、という事だろう。


エレベーターが昇っていく間、頭の中を高速で物事が回転していた。


友達とは・・・跡部のことだったのか?
ならば何故、跡部との事を俺に話さなかった?


跡部がの部屋にいる理由。
跡部が『』と名前で呼んでいる理由。


考えれば考えるほど。最悪な予測しか思い浮かばない。



部屋の前まで来て、真田は大きく深呼吸をした。


この扉の向こうに真実がある。
それが分かっていて、真田はインターフォンを押した。



カチリ。と音がして、中から扉が開く。
開いていく扉の向こうには・・・あのパーティー以来会っていなかった景吾がいた。



会社の帰りに寄ったのだろう。
ワイシャツ姿だ。



「よう。久しぶりだな。」 
の熱は?」


「39.1℃だ。」



真田の顔が険しくなる。
景吾は一歩さがると「お前、医者なんだし。診てやってくれるか?」と玄関に促した。



「お前、ここには出入りしてるのか?」
「いや。引越しの手伝いに来たきりだ。」



真田が靴を脱ぐ間に交わした言葉。
『跡部は?』喉まで出かかっていた言葉は音にならなかった。


ソファーに無造作に投げられている男物のジャケット。
景吾はリビングを通り抜け、慣れた手つきで寝室のドアに手をかけた。


ノックも何もなし。
いきなりドアを開けて真っ直ぐにのベッドに向かうと、彼女の枕元に座って額に触れた。



引越しを手伝った時、彼女のベッドは白いシングルベッドだった。
だが、今・・・真田の目の前で彼女が横たわっているのは。


景吾が勝手に送りつけてきたセミダブルのベッドだった。



、真田が来てくれた。」



景吾は優しくの髪をすき、彼女の耳元に顔を寄せて囁く。


ここは恋人たちの寝室なのだと。
真田は強く拳を握り締めた。



うっすらと目を開けたが、真田の姿を見て泣きそうな顔をした。



「弦一郎・・・ごめ・・・」
「何も言うな。咳は出るか?喉は?少し・・・顎の下に触れるぞ。」



謝りかけたの言葉を制して、景吾の隣に立ちの顎の下に触れる。
じっと見つめてくる景吾の視線を感じながら、リンパ節の腫れをチェックした。


症状からして、今流行しているウィルス性の感染症に違いない。



。今、この風邪が流行っているんだ。ウィルスだから特効薬はない。
 だが対症療法といって、熱を下げたり、喉の痛みをとったり、体を楽にしてやることはできる。
 あとは脱水にならないように水分を多めに摂取して安静にしていれば、3日ほどで治るだろう。」



僅かに頷いたは、体よりも心が痛む顔をして真田を見ていた。
とても傷ついた目をしているに、怒りなど見せられるはずもなく。


真田は自分の内にある気持ちを押し殺して笑顔を浮かべた。



「そんな顔をするな。お前が・・・言いたいことは分かっているつもりだ。
 とにかく休むんだ。薬を置いていくから飲むんだぞ。」


「弦一郎・・・」



掠れた声と一緒に、目じりから涙が零れた。
反射的に、その涙をぬぐってやろうと動いた手。


だが真田の手よりも早くに。景吾の指がの涙を拭った。
そっと人差し指での頬に触れて、真田に強い視線を向けてくる。


その瞳は『俺のものに触るな』と真田に言っていた。


伸ばしかけた手を握り締めて、ぐっと口元を引き締めた。
いつもならの髪を撫でてやるのだが、それも許されないだろう。



足元に置いていた袋から薬を出し景吾に渡す。
事務的に飲み方や効用を説明した。



「これでいいな。では、俺は帰る。」
「助かった。」


「他にも食べられそうなものが入っているから、これを頼む。」
「ああ」



買ってきた他の物もすべて景吾に渡して寝室を出て行く。
最後にを振り返ると、
彼女は哀しそうな瞳を揺らして真田を見ていた。



「じゃあな、。」
「・・・ごめんなさい」



小さく呟いたに、ゆっくりと首を横に振ってやり、静かに部屋を出た。


リビングを突っ切り、真っ直ぐ玄関に向かう。
飾り棚に置かれている自分の一輪挿しが目に入った。
白いバラが活けられている。



ほんの少しだけ、その前で視線を止めたが・・・真田が立ち止まることはなかった。
景吾も黙って真田の後ろについて、玄関まで見送りに出てきた。



靴を履く間も言葉はない。
ただ、ひとつ。真田は景吾に言わなくてはならないことがあった。



振り返り、目の前に立つ景吾を真っ直ぐに見た。
景吾も目はそらさない。



「遊びは許されない。分かっているか?」
「ああ」


「・・・ならいい」



真田は目を伏せて、景吾に背を向けドアノブに手をかけた。



「真田」
「なんだ?」


「俺は一番最初に確認した。お前は真田の恋人かと、な。だが、アイツは違うといった。親戚だと。そうだろ?」



真田は背を向けたまま、ドアを開いた。
外に足を踏み出して、一言。



「そうだ」



そう残して、振り返りもせずにの部屋を出た。





車に乗り込みエンジンをかけると、すぐさま夜の道に飛び出す。
とにかく彼女のマンションから遠ざかりたかった。


普段なら必ず停まっている点滅する信号も突っ切って、ひたすら走り続けた。
大通りに出て、初めて赤信号に引っかかった。


目の前の交差点をライトに照らされて歩行者が歩いていく。
色々な表情の人たちを見ていたら、どうしようもない気持ちが込み上げてきて。
真田は思いっきりハンドルを拳で叩き、そのまま突っ伏した。



そうだ。恋人ではなかった。
親戚。そう、遠い親戚で。ずっと・・・子供の頃から彼女を見てきただけだ。


だが、跡部。


俺はを愛していた。
ずっと、ずっと。大事すぎて触れられないほどに。
何より。誰より。を愛してきたんだ。


それなのに・・・



後ろから短いクラクションが鳴った。
気づけは信号は青になっていて歩行者の姿はなかった。










真田を玄関で見送った景吾は閉まったドアを見つめたまま、ひとつ溜息をついた。


寝室に戻ると、が毛布をすっぽり頭までかぶっている。



。少し何かを胃にいれて、薬を飲めよ。」



声をかけたが毛布から顔を出してこない。景吾は毛布を掴んで容赦なく引っぱった。
思ったとおりのに、景吾は眉根を寄せると舌打ちをする。



「なんで泣いてんだ?俺のことを話してなかったのは・・・真田と二股でもかける気だったのか?」
「違う!なんで、そんなこと」


「じゃあ、なんで真田の顔見て泣くんだ?そんなに俺との事が知られたくなかったのか?」
「・・・・それは」


「言えよ!それは、なんだ?」



は倦怠感の強い体をのろのろと起こす。
俯いたまま毛布の端をぎゅっと掴むと、掠れた声で苦しそうに話し始めた。



「あんな形で始まって・・・弦一郎に話せなかった。
 あなたのことが怖いと思いながらも、惹かれていく自分も分からなかったし。
 弦一郎は、ああいう人だから。真っ直ぐに生きている人に言える恋じゃない気がして・・・。」


「真っ直ぐ生きてない俺と付き合っていることは、真田に知られたくなかったってことか?」


「そうじゃない、私なの。私が・・・あなたを好きになって変わってしまったの。
 子供みたいに思われるだろうけど。弦一郎には・・・ずっと昔のままの私を見ていて欲しかった。」


「いい加減にしろよ?お前は、もう俺のもんだ。真田なんか関係ねぇ。
 俺のために流す涙は許せるが、他の男のために流す涙は許さない。」


「景・・」



の言葉は自分の唇で塞いだ。
熱い唇を塞ぎながら、湧き上る苛立ちが抑えられず。


景吾はそのままをベッドに押し倒した。










深夜のリビングで。


景吾はひとり、ソファに座ったまま目を閉じていた。





時計の音だけが響く部屋で、く・・・と景吾の笑い声が漏れる。



What's done is done. 


後悔先に立たず・・・とは、よく言ったものだと思う。



熱のある恋人を怒りにまかせて抱くなど。
冷静に考えれば、どんなに酷いことをしたのか理解もできる。
だが、あの時は感情を抑えることができなかった。



ふと。テニスコートで感じた熱い風を思い出した。
ラケットを強く握り締めて唇を噛んだ日。
自分の思い通りにならないことがあるのだと思い知らされた敗北の日だった。



真田との関係に嫉妬した。それは、事実だ。
の心のすべてが自分にあるわけではないと知って激高したのだ。


それが恋愛感情と呼べる、呼べないにしても。
真田を想い涙するを許せなかった。



「面倒くせぇ・・・」



景吾は小さく呟いた。




















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