さよならから始めよう 12
景吾は初めて人を愛した。
愛した人は傍にいるのに。何故か満たされない心。
力づくで手に入れた恋人は、あまりに儚く傍にいた。
ふたりの恋愛は、脆い砂の上に立つ城のような感じだ。
美しいが、いつ崩れてもおかしくない・・・幻のよう。
「。今夜は、俺の部屋に泊まっていけよ。」
「でも・・・」
「俺が泊まれと言ってるんだ。お前は黙ってついて来ればいいんだよ。」
「・・・。」
は困ったように少し笑って目を伏せる。
また、その笑顔かよ。
景吾は心の中で舌打ちをしてアクセルを踏み込んだ。
分かっている。何が悪かったのか。もう、とっくに気づいている。
今まで人を愛したことがなかった。
真正面から向き合って、ひとつひとつ想いを重ねて、確かめ合って育てていくような恋愛をしたことがない。
本気で愛して、愛されたいと思ったとき。
間違ったやり方でを手に入れてしまったことを、今さら後悔している。
心からの笑顔を見たいのに。
もっと自分を頼って欲しいのに。
もっと恋人らしくし甘えて欲しいのに。
いつまでたっても遠慮がちで、心のすべてを見せない。
自分が悪いのだと知りながらも、それに苛立つ景吾は優しくできない。
そんな景吾の態度に、は怯えて心を隠す。
体は重ねても、重ならない心。
ふたりでいるのに。いつも何かが足りなくて寂しい恋人たちだった。
「もしもし。弦一郎?」
『ああ。どうした?何かあったのか?』
「ううん。何もない。しばらく声を聞いてなかったから、元気かなと思って。今、電話、大丈夫?忙しい?」
『相変わらずだが、家に戻ったところだ。気にするな。お前のほうこそ忙しいのだろう?もう家か?』
「まだ会社。少し疲れたから息抜きで電話しちゃったの。ごめんなさい。」
『謝ることはない。俺もどうしているかと思っていたところだった。』
人気のないオフィスで、パソコンのディスプレイを見つめながらの電話。
それでも耳元に聞こえてくる真田の声はを包むように優しい。
は、ほっと体の力を抜いて他愛のない会話をする。
ほんの10分ほどで切った電話。
その中で、景吾の名前は一度も出なかった。
「ねぇ、景吾。こっち。」
「いい加減にしろよ。俺も、それほどヒマじゃねぇんだ。」
「いいじゃない。ほら、こっち。」
日曜日。景吾は保奈美に強請られて買い物に連れてきてやった。
適当に済ませて帰りたいのだが、はしゃぐ保奈美は離れてくれそうにない。
保奈美を家に送りとどけた足でのマンションへ行くか・・・と頭の中で考えながら腕時計を見る。
「これ、可愛い!」
アンティークの輸入雑貨店で保奈美はアクセサリーを見て喜んでいた。
そんな彼女を視界に入れながら、ふと見たガラスケースに花柄のペンが置かれてあった。
キャップのついたボールペン。すべてに薄ピンクのバラの模様が入っている。
以前、頑なに指輪を受け取ろうとしない恋人に何なら受け取るのか聞いたら
『ボールペンとか』と答えたのを思い出した。
その欲のない言葉を思い出して笑いが込み上げる。
「これをくれ。」
「贈り物ですか?」
「ああ」
店員がガラスケースを開けてボールペンを取り出し箱に入れて包み始める。
ご所望のボールペンだ。アイツ・・・どんな顔を見せるだろう。
想像しただけで可笑しくて、景吾は小さく肩を揺らしながら店員が包み終わるのを待った。
「あ、景吾。何を買ったの?」
「ボールペン」
「ボールペン?なんで?」
「ボールペンが欲しいって、我儘言う奴がいるんだよ。」
く・・・と口元を緩めて『行くぞ』と保奈美に背を向ける。
保奈美はきゅっと唇を噛んだ。
ボールペンが欲しいと言ったのは・・・きっと、あの人だ。
自分の直感が、間違いないと訴えている。
景吾のあんな柔らかな表情、そうそう見られるものじゃない。
手にした紙袋をギュッと握り締めると、自分の爪が掌に食い込むのが分かった。
「おらよ。プレゼントだ。」
「・・・あの」
「お前が欲しいと言った物だからな。黙って受け取れよ。」
たたみかける様に言われて、困惑した表情のが包みに手をかけた。
丁寧に包装を開いていく細い指には景吾が贈ったダイヤモンドの指輪が光っている。
「あ・・・これ。」
「ボールペンなら受け取るんだろ?」
箱を開けたが、綺麗な模様が入ったボールペンを見て目を大きくした。
悪戯っぽい景吾の声。の反応を待っている。
はボールペンを取り出して眺め、それからキャップを外して、また眺める。
フッと、の瞳が和んだ。
パチンとキャップをはめると鞄の中から愛用の手帳を出してきてシンプルなボールペンを抜き、
景吾の選んだボールペンをセットする。
そして、やっと景吾の方に顔を向けた。
の顔を見て、景吾は目を細める。
「ありがとう。とても・・・気にいりました。」
ふんわりと。ボールペンに咲いていた花のように微笑んだ。
その笑顔に何の曇りもないことを知って、景吾の胸に穏やかな愛情がわいてきた。
想いのままに手を伸ばし、いつもより優しくを抱き寄せる。
優しい気持ち。愛しい気持ち。慈しむ気持ち。守りたい気持ち。
女を愛する・・・っていうのは、こういう感情を胸のうちに抱えるってことだったのか。
そんなことを思いながら、景吾はの体を包むように抱きしめて髪を撫で唇を落とす。
は黙って、与えられる優しさを受け止めた。
切ないほどの幸せと景吾への愛情が胸に溢れて。この時間だけは、何も考えずに彼の胸に縋った。
「では、真田君。受けてくれるのだね。」
「はい。よろしくお願いします。」
「良かった。出発は秋の予定だ。あそこは最先端の治療を実施している。
そこで君が学んできてくれれば・・・期待しているよ。」
「ご期待に添えますよう努力します。」
真田は頭を下げて、渡された英文の書類を手に院長室を後にした。
日本を離れる。それで、いいのだろう。
頭を掠めた。
院長に『君は独身だったが・・・もしも共に連れて行きたい女性がいるなら』と気遣われた。
瞬間浮かんだの顔は心の中で消して、頭を横に振った。
絶ちがたい彼女への想いを物理的に断つ。
心は自分でもどうしようもないと分かっているから。せめて距離を取るしかない。
真田は病院の長い廊下を歩きながら窓の外を見た。
鳥が羽ばたいていくのが視界に入り足を止める。
飛んでいく鳥をこの胸に抱く日などないのだ。
真田は空を見上げながら立ち尽くしていた。
「おじい様。お願いがあるの。」
『なんだ、保奈美。何か欲しいものでもあるのか?』
「欲しいもの・・・。うん、そう。おじい様、私。」
『うん?』
「景吾が欲しいの」
跡部家に縁談を申し込んでくれない?
最後の手段は、跡部家の会長と仲がいい祖父の力を使うしかない。
窓の外は夏。
今年は冷夏だと騒がれていても、夏は暑い。
なのに保奈美は寒かった。
体も、心の中も寒くて・・・凍えそうだった。
自分の体を自分の手で抱くようにして、保奈美は震えながら受話器を握っていた。
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