さよならから始めよう 14
景吾からの電話を切ったは、携帯を握ったままソファに倒れこんで目を閉じた。
会社にいるといったのは嘘。
あのまま社にも戻らず真っ直ぐ帰宅した。
なのに、いまだ服も着替えずに、ぼんやりとしていたのだ。
景吾との出会いから今日までを思い出していた。
突然で強引な始まりだったけれど、惹かれたのは自分だ。
今も『何故、惹かれたのか』と思うことがある。
彼は、世の中に思い通りにならないものはない・・・と思っているかもしれない。
そして、自分の思いを通すだけの力と強さがあるのも事実だ。
人の心にまで強引に踏み込んでいく。
はじめは怖かった。
けれど・・・本当は優しいのだ。
人の話など聞かないようで、の希望を聞いてくれていた。
怯えているときは怖がらせないように。
不安がっているときは包み込むように。
傍にいて抱きしめてくれた。
遊びなのだと。すぐに別れは来るのだと。
自らの心に予防線を張って、いずれ来る痛みに耐えようとしていたけれど。
彼に優しくされて、触れられて、穏やかな瞳を見つけるたびに。
『愛してくれている?』と頭の隅で思っていた。
未来があるのかもしれない。
愛されているのかもしれない。
そんなことを思い始めたのは夏から。
なのに。
彼女と結婚が決まっているなんて。
彼女は、どんな思いで私を見ていたんだろう。
腹立たしい思いも。哀しい思いもさせただろう。
彼は、どんな思いで私を彼女に紹介したんだろう。
それは、彼女にも。私にも、残酷すぎる。
跡部の家にいる使用人たちは、どんな目で私を見ていたんだろう。
恐ろしい。哀しい。恥ずかしい。苦しい。
婚約者のいる人の家に出入りしていたなんて。
自分のしてきたこと。思ってきたこと。希望も。彼への愛情も。
足元から崩れていくようだった。
暗い穴に落ちていくような感覚。
何故、言ってくれなかったの?遊びだから、言う必要もないと?
ねぇ、少しでも心から好きだと思ってくれた?
私をどうするつもりなの?
ねぇ、答えを教えて?
私は・・・どうすればいいの?
は、ひとり涙を流す。
言葉では景吾への恨み言が言えても。
心は彼を責めることができない。
この期に及んでまで『希望』を捨てられずにいる自分がいて。
『希望』を持つということは、保奈美から景吾を奪うという事なのだと分かっていて止められない。
彼女がいなければ・・・打ち消しても頭をもたげてくる思いに。
私、最低の人間だ。と、新たな涙が零れる。
すぐに別れなくては。
貰ったものは、すべて返し。
彼のことを忘れなくては。
保奈美さんにも謝らなくては。
分かっているのに心が言うことを聞かない。
別れたくないと心が叫ぶ。
彼を愛していると心が泣く。
忘れられない。
彼女から奪ってしまいたい。
ただ、ぐるぐると同じ思考はめぐって時間だけが過ぎていく。
答えは『ひとつ』しかないのに、そこに辿り着けない自分の心。
は責める。
自分の心を、存在を、すべてを否定して責めた。
責めることで救われたかったのかもしれない。
けれど。どんなに自分を責めても傷つけても、消せない想い。
彼を愛している。
ふと。飾り棚に飾られた一輪挿しが目に付いた。
真田の優しい笑顔が浮かぶ。
弦一郎。私、どうしたらいい?きっと軽蔑されるね。
あなたみたいに真っ直ぐ生きていきたかったのに。
私・・・こんな醜い心を持った人間になっちゃった。
弦一郎。助けて・・・
彼を知らなかった頃の私に戻りたい。
は小さな体を胎児のように丸めて、ソファで寝てしまった。
子供のように泣きながら。
翌日。迎えに出たの顔を見た景吾は目を眇めた。
「お前、寝てないのか?」
「少し・・・寝ました。ごめんなさい。酷い・・・顔で。」
俯き加減で頬にかかる髪を耳にかけたの顔は血の気がなかった。
それでも、ほんの少し微笑んで玄関に景吾のスリッパを出してくれる。
玄関からリビングに向かうの背中があまりに細く頼りない。
「あれから、まだ仕事をしてたのか?」
「・・・何を飲みますか?紅茶?」
「そんなものはいいから。横になったら、どうだ?」
「でも、」
「いいから。寝ろ」
台所に立つの手を引いて、寝室に向かう。
昨夜は寝た形跡のないベッドに溜息をついて、さっさと布団をめくり眠れるようにしてやる。
「大丈夫だから、本当に。それより・・・話が。」
「いいから、寝ろっ!話は、寝てからだ!」
睨みながら強く言う景吾に逆らえるはずもない。
それでも躊躇っているの腕を掴むと、景吾自身が布団に入った。
「添い寝してやるよ」と笑って、を引っ張る。
引かれるままに景吾の腕の中に納まって。
肩まで布団をかけてもらって。
おやすみのキスをもらって。
髪を撫でてもらって。
は静かに目を閉じた。
景吾の鼓動が胸から聞こえてくる。
・・・あったかい。
「景吾・・・さん」
「ん?」
「ありがとう」
「さん、は、余計だな。」
可笑しそうな景吾の声が耳に響き、は切なくて泣きたくなった。
もう、二度と。
この、ぬくもりに触れることはない。
あなたが、どんなに嘘つきでも。私は、愛してる。
あなたに、どんなに大切な人がいても。私は、愛してる。
あなたが、私のことを愛してくれてなくても。私は、愛してる。
あなたを愛してる。
もう、さよなら・・・だけど。
を腕の中にして、心地よさにウトウトした。
目覚めると、がじっと自分を見ている。
「なんだ、起きてたのか。」
「さっき、目が覚めました。」
「人の寝顔を観察するとは、いい趣味だな?」
「寝顔が見られて・・・幸せでした。」
「ハッ、そんなことぐらいで幸せになれるなら。毎日だって見せてやるぜ?」
景吾の言葉に、の瞳が揺れる。
「なんだ?」と聞けば、が笑った。
「毎日だったら、幸せすぎて・・・死んじゃうかも」
「バーカ。」
笑いをかみ殺しながら、景吾が腕の力を強くする。
はおとなしく、その腕に身を任せた。
その日のは景吾から離れようとしなかった。
いつになく素直に甘えてくる彼女に景吾は満足して、一日の殆どをベッドの中で過ごす。
寝室の窓に差し込んでくる西日がオレンジになった頃。
頭もとの時計を確認した景吾は体を起こした。
7時には保奈美の家に出向かなくてはならないと計算して、シャワーを浴びようと思ったのだが。
そっと伸びてきた白い手が、景吾の腕に触れた。
「ん?どうした?」
「もう少しだけ、傍にいて」
消え入りそうな掠れた声。顔を半分枕に埋めたの表情は見えなかった。
「悪い。保奈美の家に行く約束のを知ってるだろ?アイツとの約束だけなら反故にしてもいいが。
今日は会長も来るし、あっちの両親やらも揃うらしいから遅れるわけにいかねぇ。」
「・・・・・そう・・ですか」
「なんなら明日、会おうか」
「・・・いいえ。我儘を言って・・・ごめんなさい。」
の手が景吾から離れていく。
それに、どんな意味があるかも知らず、
景吾はの髪をくしゃっと撫でてベッドから出て行った。
の肩が震えていることも。
頬に涙が流れていることも知らず。
終わりが近付いている予感さえ感じられずに。
いつもは玄関で別れるが『下まで見送り行きます』と駐車場までついてきた。
日中は良いお天気だったのに、いつの間にか雨雲が空を覆い始めている。
灰色の雲の間から鮮やかな夕日が射すような、不思議な色の空だった。
「これを」
運転席に乗り込もうとしたときに、が長方形の箱らしきものを差し出してきた。
箱は綺麗な色の紙で包まれている。
「なんだ?」
「夜・・・お家に戻られてから開けてください。」
ちょうどペンでも入っていそうな大きさの箱を受け取って、景吾は可笑しそうに笑う。
「ボールペンかよ?俺の誕生日は、まだだぜ?」
は何も言わず、ふんわりと微笑んだ。
そんなの頬に触れると、彼女は目を閉じて自分の手に擦り寄る。
可愛い奴。
想いのままにキスをひとつ残して、
景吾は車に乗り込んだ。
いつものように窓を開けて「じゃあな」と恋人に声をかける。
「気をつけて。・・・さようなら」
が車から下がった。
薄暗くなった景色の中。の顔が、やけに青白く見える。
それが気になって、走り出しながらミラーでの顔を見た。
一瞬、泣いているのかと思った。
手を振りながら駐車場に残るが、今にも泣き出しそうな顔をしている気がして。
ああ、やっぱり。もう少し、傍にいてやれば良かった。
そう後悔したが、時計は約束の時間に余裕がないことを知らせていた。
明日だ。明日。久しぶりに、空港の見えるホテルにでも連れて行ってやろう。
気を取り直して、車のアクセルを踏み込んだ。
そのフロントガラスに、ポツリと雫が落ちてくる。
「雨か・・・」
ひとりの車内で、景吾は声に出して呟いた。
もう、ミラーには。恋人の姿は映っていない。
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