さよならから始めよう 16
雨は夜半にかけて激しさを増した。
景吾は雨だれで歪むガラスを見つめながらベッド脇の壁に凭れて立っていた。
やっと落ち着いた保奈美が目を閉じている。
その白い腕に繋がれた点滴からは、規則的に薬液が落ちていっていた。
今ごろはどうしているだろう?
携帯は繋がらない。
半日前には腕の中にいたはずなのに、その姿は儚くて。
彼女が消えてしまいそうな気がして落ち着かない。
もう少しだけ、傍にいて
が初めて言った我儘だったかもしれない。
保奈美のもとへ行く・・・という自分にが言った言葉。
それに、こんなにも深い意味があったのだと。今ごろ気づいた。
考えながら腕を組みなおして。
ふと、椅子にかけてあった上着が目に入った。
別れ際、に渡されたものがあったのを思い出し、
保奈美を起こさないよう静かに近付いて取り出す。
包みを剥がすと薔薇の模様が入った箱が現れた。
これは?
見覚えのある箱を開けると・・・
中には薔薇の模様のボールペンと
プラチナのチェーンに通されたダイヤモンドの指輪が入っていた。
「あの・・・馬鹿っ」
小さく呟くと上着を掴む、そして一度だけ寝ている保奈美を振り返った。
すまない。心の中で告げ、景吾は踵を返すと保奈美の部屋出た。
激しい雨の中、車を走らせる。
失いたくない、たった一人の人のために。
「本当に・・・大丈夫か?」
「ありがとう。迷惑ばかりかけて・・・ごめんなさい。」
白いを通り越して青かった顔色も、やっと赤みが戻ってきていた。
は真田に借りたシャツを着て袖を何重にも折り返していた。
細い体に着た男物の大きなシャツは彼女の華奢さを際だたせて、
今にも折れてしまいそうな儚さで立っている。
深夜のマンションは明かりだけが煌々として、誰もいない。
車を横付けしたエントランスでと真田は向き合っていた。
「、今夜話したこと・・・考えてみてくれ。
俺は・・・必ず、お前を幸せにする。」
「弦一郎、駄目よ」
は潤んだ瞳で小さく首を横に振る。
決して頷いてはくれない人を目の前にしても、真田の決意は固かった。
あんな泣かせ方をした景吾が許せなかった。
を傷つけるのなら、力ずくでも離す覚悟だ。
「。どっちにしろ、跡部はお前のものにはならない。
辛いだろうが・・・俺が支える。お前の傷が癒えるまで、いくらだって待つ。
俺を見ろ、っ!」
「駄目よ。甘えてばかりで・・・弦一郎の気持ちも知らないで。
私・・・これ以上、あなたの傍にだっていられない。・・・ごめんなさい。」
「!俺を見ろと言っているっ!」
の両肩を掴んで強く言えば、怯えたような瞳の彼女が顔を上げた。
「俺を傷つけたのだと思っているのだろう?
確かに、お前と跡部の関係に苦しまなかったといえば嘘になる。
だが、それは俺自身の問題だ。
俺が勝手にを愛し、それでいて何も告げず幼馴染の顔をしていたのだ。
お前は、ただ恋をしただけだ。俺に罪悪感を持つ必要はない。」
「でもっ、」
「。俺は自分がズルイ人間だと知ったうえで言っているんだ。」
「ズルイ?」
「そうだ。俺はズルイ男だろう。弱ったお前を・・・手に入れたいと思っているんだから。
頼む、。俺を拒まないでくれ。・・・愛しているんだ。」
痛いほど真っ直ぐな視線と言葉。は、軽い目眩すら感じた。
自分の知らない真田が目の前に立っている。
言葉がなくなると、エントランスに打ち付ける激しい雨音しか聞こえてこない。
肩から上がってきた真田の手が両頬を包んでくる。
その手の冷たさに、混乱した思考が刺激された。
近付いてくる真田の唇。これを受けてしまったら・・・私は?
が顔を背けようとしたのと、クラクションが響き渡るのが同時だった。
ハッとして二人が同時に振り返る。
ヘッドライトがついたままの車から傘もささずに降りてきたのは・・・景吾だった。
景吾は眉根を寄せ、厳しい目を二人に向けながら雨に濡れながらエントランスに入ってくる。
茫然として立ち尽くすを庇うように、真田が景吾の前に立った。
「これは・・・どういうことだ?説明して貰おうか?っ!」
真田の後ろで明らかにの体が震えた。
「跡部、大きな声を出すな。が怯える。」
「どけよ。お前に聞いてるんじゃねぇ。」
「どけない。跡部、俺は言ったはずだ。『遊びは許されない』とな。
は返してもらう。俺が、ドイツに連れて行く。」
「な・・・に?」
「お前の傍にいてもは傷つくだけだ。はお前のせいで笑い方さえ忘れてしまっている。
知っているか?コイツは・・・花のように笑うんだ。柔らかい、咲きたての花のようにな。
・・・お前は泣かせてばかりだろう?
俺ならば笑わせてやれる。
いつまでも、花のように。大切に・・・大切に守っていく。
跡部。・・・遊びは終わりだ。を自由にしてやってくれ。」
景吾は目を見開いたまま、真田の顔を睨みつけていた。
言い返したい言葉があった。
『遊びなんかじゃない!本気だ!』
だが唇は音を紡げない。奥歯をかみ締めて、ただ真田を睨みつけるだけ。
が花のように笑う、この言葉が胸に堪えた。
俺の前では・・・笑わねぇ。
「景吾・・・さん」
真田の後ろから消え入りそうな声が聞こえてきた。
気遣わしそうに見つめる真田の横に並んだに、景吾は瞳をすっと細くした。
の着ているシャツは・・・明らかに男物だ。
どうしようもない、嫉妬。怒り。
すべてが体の底から湧きあがってきて抑えられない。
「ああ、いいぜ。遊びは終わりだ!」
吐き捨てるように言って、ポケットに入っていた箱を取り出すとの足元に投げつけた。
鈍い音と一緒に箱は開いて、中に入っていたボールペンと指輪が飛び出す。
カランカラン・・・と響かせて転がる音。
景吾はの目を睨んで、ぐっと拳を握り締めた。
「こんなもん返してもらっても困るんだよ。じゃあな。」
唇が震えているの頬に涙が落ちていった。
最後まで泣き顔しか見られないのか・・・と、苦々しく舌打ちして背を向ける。
終わっちまった
景吾は目を閉じてエントランスから雨に打たれる外に足を踏み出した。
さよならだ、
車に乗り込むと、二人を視界に入れないようにしてアクセルを踏み込んだ。
タイヤの軋む音が胸に突き刺さる。
もうミラーさえ見ずに
景吾はアクセルを踏み続けた。
愛した人の車は、あっという間に激しい雨にまぎれて消えてしまった。
はゆっくりとしゃがみ込んで、足元に散らばる箱を拾う。
移動しながら、ひとつずつ小さな部品まで拾って
壊れた箱に思い出の品を集めていくの背中を真田は黙って見つめていた。
肩が小さく揺れる。
声を出さずに・・・泣いているのだと分かった。
ボールペンはヒビが入っていた。キャップが割れてしまっている。
チェーンがついたままの指輪はエントランスのガラスにあたって落ちていた。
『おらよ。こうして首にかければ邪魔にならねぇだろう。
だが、俺と会うときぐらいは指にはめてくれ。』
指輪を拾うと、堪えきれずに嗚咽がもれた。
ぎゅっと手のひらに握り締めて・・・は泣いた。
あっけなく終わってしまった恋に。
は泣いた。
さようなら、と。
戻る テニプリ連載TOPへ 次へ