さよならから始めよう 17
跡部邸に足を踏み入れた保奈美は、何かいつもと違う違和感を感じた。
玄関に出迎えてくれた渡邊が保奈美の様子を見て目を細める。
「随分とお顔の色が良くなっていらっしゃいます。安心いたしました。」
「ありがとう。景吾は?」
「お部屋にいらっしゃいます。」
話しながら玄関に上がって、その違和感の正体に気づいた。
花がない。
広い玄関ホールには、いつも花が飾られて訪れる人を迎えていたのに、
どこにも花がなくて殺風景なのだ。
保奈美の視線に気づいた渡邊が、少し言いにくそうに教えてくれた。
景吾の指示で、邸内には花を飾らなくなったのだと。
景吾の部屋の前まできて、保奈美は深呼吸をした。
コンコン、とノックをして「わたし」と言えば「入れよ」と返事が返ってくる。
いつもの何倍も緊張して中に入れば、窓辺に立った景吾がぼんやりと庭を見下ろしていた。
めずらしい、と思う。
景吾は休みの日であろうと、何もしないでいることなど・・・まずない。
机の上のノートパソコンは閉じられたまま。
読みかけの本は栞を挟んだままソファーの上に無造作に置かれている。
音楽もない。・・・花もない。
そんな中で、景吾は入ってきた保奈美に目もくれず庭を見つめている。
「どうしたの、ぼんやりして。具合でも悪いの?」
「別に。お前こそ、調子はいいのか?」
「うん。まあまあ。学校も行ってる。」
「・・・そうか。」
保奈美は景吾の隣まで進んだが、変わらず景吾の視線は窓の外から動かない。
何を見ているのか・・・と保奈美も窓の外を覗いた。
そこには、真っ白の花が咲いていた。
花に詳しくない保奈美には名前も分からない花だったが・・・
その花を何故、景吾が見つめているのかはすぐに理解した。
清楚な白い花。それは・・・あの人だ、と。
「景吾。婚約の話なんだけど、うちの方は、」
景吾を現実に引き戻したくて、保奈美は努めて明るく話し始めた。
周囲は景吾を置き去りにして話を進めている、
すべては自分の思い描いた通りになっているのだ。
なのに、何故・・・こんなにも虚しい気持ちになるのか。
「ねぇ、景吾っ!聞いてる?こっちを見て!」
耐え切れなくなった保奈美は、景吾の腕を引いた。
やっと視線を上げた景吾の目を見て、保奈美は心が凍るかと思った。
怒りでもない、悲しみでもない、不思議な色の瞳。
それは・・・諦めにも似た、喪失感をともなう光を失った瞳。
「景吾・・・」
「お前、本気で俺と結婚するつもりか?」
「も・・もちろんでしょ」
動揺しながらも無理に笑顔を作って答えた。
景吾の瞳が痛い。
窓際から差し込む光りで碧みがかった瞳が自分を映している。
心の汚れた・・・罪を背負った自分を。
「俺は・・・多分、誰と結婚しても一緒だ。だからこそ、保奈美とは結婚したくない。」
「どういう意味?」
「俺は・・・人を愛せない。
愛せなくても結婚は出来る。
俺は社会的信用を得るためだと割り切っちまえば、なんとかなるだろうが。
女は・・・そうもいかねぇんだろ?特に、お前は俺が好きだという。
形だけ結婚して、それで満足できるか?
愛されなくても平気でいられるか?」
「そっ、そんなの。結婚して一緒に暮らしてたら・・・気持ちだって、」
「バーカ。俺はこれで何年生きてきたと思ってるんだ?
誰といても・・・気持ちは変わらなかった。これからも変わりはしないだろうよ。
お前は妹みたいに可愛がってきたからな。
不幸にするのが分かってて・・・結婚は出来ねぇよ。」
景吾はうっすらと笑顔を浮かべている。
嘘だ!と保奈美は思った。
言ってはいけない、頭の中では分かっていても我慢できずに。
「嘘よ!あの人、本気だったじゃない!愛してたじゃないっ!」
言ってしまったから、ハッとして景吾をみた。
景吾は静かな目をして一つ溜息をつくと、また窓の外に視線を向ける。
「あいつは・・・特別だった。それだけだ。」
保奈美は部屋を飛び出した。
苦しくて、苦しくて。もう、景吾の部屋にはいられなかった。
景吾の心は私のものにならない!
確信を得てしまった今。
後には・・・唯一の愛を壊してしまった『罪』しか、保奈美には残っていなかった。
はデスクの上に大きなダンボールを置いて、私物の片づけを終えたところだった。
「さん、お客さんですよ。」
同僚に声をかけられて振り向けば、氷帝の制服を着た保奈美が立っていた。
瞬間驚いた顔を見せただったが、すぐに笑顔を見せる。
「良かった、私もお会いしたいと思っていました。」
その言葉に保奈美は小さく頭を下げた。
ビルの隣にあるカフェで向かい合う。
コーヒーとオレンジジュースが運ばれてくるまで、お互いが口を開かなかった。
もともと線の細い人だったが、また一段と華奢になっていた。
折れそうに細い指がスプーンでコーヒーをかき混ぜるのを保奈美は黙って見ていた。
何から話せばいいのか。
ここへ来るまでに考えていた言葉が口に出せない。
躊躇っているうちにの方が話し始めた。
「日本を発つ前にお会いしたいと思っていたんですけど・・・
どうやって連絡を取っていいのか分からなくて困っていたんです。」
「日本を発つ?」
「ええ。明日、ヨーロッパへ留学します。以前から誘われていて、やっと踏ん切りがつきました。
だから、その前に・・・あなたにお詫びがしたいと思っていたんです。
すみませんでした。どんなにお詫びをしても足りないと思います。
けれど・・・他に償うことも出来なくて。本当に・・・」
「待って!それはっ、」
保奈美は慌てた。まさかが謝罪してくるとは思ってもいなかった。
「跡部さんには・・・もう二度と会いません。
日本にも、しばらくは帰ってきません。ですから・・・もう、」
自分の絡めてしまった糸が、人の生き方までも変えていく。
今さらながら自分の犯した事の重大さに身が震えた。
「待って、違うの!あれは・・・あれは、嘘だったんです!
景吾をとられたくなくてっ、それで私が嘘をついたんです!
許してももらわないといけないのは、私のほうっ」
保奈美は両手で顔を覆った。どんなに非難されようとも弁解できない。
景吾は・・・結局この人に取られてしまう。
それでも、あんな景吾を見るぐらいなら。
顔を覆った自分の手に、柔らかなものが触れる。
そっと顔をあげれば、中腰になったが微笑みながらハンカチを差し出してくれていた。
「どうして・・・」
「ごめんなさい。やっぱり、辛い思いをさせたんですね。」
「何故?何故、笑ってられるの?」
「もう終わったことです。」
「なんで?景吾は誰とも婚約なんかしてないのよ?今すぐにでも恋人に戻れるのよ?」
はハンカチを保奈美の前に置いて、ゆっくりと首を左右に振る。
「いいえ。もう・・・終わったんです。・・・夢のような恋でした。
これからは、ちゃんと一人で生きていきます。
ありがとう。わざわざ、それを言いに来てくれたんですね。」
「何で・・・」
保奈美は涙を拭うのさえ忘れてテーブルを叩いた。
信じられない。この人だって、本気で景吾を愛してたんじゃなかったの?
「私・・・いつも自信がなくて。さよならを告げられる日ばかりを恐れていました。
だから、素直になれなくて。嫌われたくなくて・・・我慢ばかりしていました。
私ね、彼の前では・・・上手く笑えなくて。それが、辛かった。
とても好きでしたけど、本当の私をぶつけることなど出来なかった。
保奈美さんとのことがなくても、いずれは駄目になっていたと思います。
だから・・・気になさらないで下さい。」
「さん・・・」
「留学ね、とっても楽しみにしているんです。
今まで、どうして躊躇っていたんだろうって思うぐらい。
私、頑張ってみます。だから、保奈美さんも諦めないで下さいね。」
最後にが微笑んだ。
花が咲いたような・・・柔らかな笑顔に。
保奈美は、ただ見惚れながら涙を零した。
『もしもし?景吾?』
「何だ?俺は大阪だぞ。これから大切な仕事があるんだ。」
『大阪?ねっ、早く帰ってきて!あの人、明日には日本を発つんだよ!』
景吾は携帯を片手に目を閉じた。
目の前には広げられた資料がそのままだ。
ドイツといったか・・・真田と共に行くということだろう。
「それがどうした。切るぞ。俺は、忙しい。」
『なんで?いいの?留学したら、しばらく帰らないんだよ?』
「留学?とにかく終わった事だ。関係ない。本当に切るぞ!」
イライラして携帯を切る。
すぐに再び鳴りはじめた携帯を傍らの秘書に渡した。
「保奈美からの電話は着信拒否にしてくれ。他からかかってきたら、俺にまわせ。」
「かしこまりました。」
資料を集め立ち上がる。
どこへでも行くがいい。俺には関係のないことだ。
廊下に出て、エレベーターホールに飾られている花が目に入った。
が好んで使ったオールドローズに自然と足が止まる。
あいつを抱きしめると・・・いつも花の香りがしていた。
「常務?」
秘書に声をかけられて我に返る。
エレベーターはすでに開いて、景吾を待っていた。
「この契約。必ずまとめるぞ。」
「もちろんです!」
傍らのスタッフに声をかけてエレベーターに乗り込んだ。
過去に振り回されたりしない。
俺は前を向いて行くんだ。
時間は・・・どの人間にも平等に、確実に、過ぎていく。
戻る テニプリ連載TOPへ 次へ