さよならから始めよう 3
無意識に触れる自分の唇。
その度に蘇る感触。背中が痺れる感じがする。
お前を・・・奪えばいい。
あの声が、耳の奥に残って離れない。
「。?」
隣から真田の声がして、は我に返った。
「ん?あ・・・何?」
「どうしたんだ、ぼんやりして。」
「なんでもないの。ここ最近忙しくて、少し疲れたみたい。」
「少し仕事を請けすぎなんじゃないか?無理をするな。」
「うん。ありがとう。」
眉間にしわを寄せて心配そうに覗き込んでくる真田に、は笑って見せた。
今夜は都内のホテルで仕事があった。
その帰りに合わせて、真田が車で迎えに来てくれたのだ。
なんとなく元気がなくて、うわの空のに違和感を感じた真田。
だが『疲れている』というの言葉を信じた。
ここ最近、忙しく働いているの過労を心配していたところだ。
本当は食事に誘うつもりだったが、を気遣って真っ直ぐ自宅に向かって車を走らせる。
また、ぼんやりと窓の外を見ていたが、ふいに口を開いた。
「弦一郎。」
「なんだ?」
「わたし・・・」
「ん?」
運転をしながら、ちらっとを見る。
は言いかけて視線を泳がせると、首を横に振った。
「ううん。なんでもない」
「なんだ?言いかけて止めるな。気分が悪い。」
「ごめんなさい。いつも優しくしてくれて・・・ありがとう。」
「あらたまって、なんだ?」
「言いたかっただけ。」
「ん?変な奴だな。」
またが曖昧に笑う。
真田は手を伸ばし、の頭をくしゃっと撫でてやった。
少しくすぐったそうに肩をすくめたに目を細め、視線はフロントガラスに向かう。
だから真田は見ていなかった。
その後にが見せた表情。
揺れる瞳をガラスに映し、変わっていく信号を遠い目で見ていたの
うつろな表情を見逃してしまったのだ。
突然の口づけは、の何もかもを根こそぎ奪っていくような激しさだった。
何故、自分がここにいるのか。
何故、二度しか会っていない男に口づけられているのか。
何故、なされるがままに自分はなっているのか。
何故。何故。何故。
口づけは始まりと同様に、突然終わった。
拘束する力が弱まったと同時に、体に力が入らずよろけたを景吾が支える。
今度は、ふんわりと抱きしめて。
彼は耳元で囁いた。
『お前は俺のものだ』 と。
景吾は愕然とするの首筋に唇を寄せ、嫌がる彼女の首の付け根に鬱血痕を残した。
彼女は泣いた。
跡のつけられた首筋を押さえて泣き崩れた。
それでも。
『その跡が消えるまでに、俺に電話しろ。分かったな?』
そう告げて、
秘書を呼び出すと車の手配をさせたのだった。
逃げるように跡部邸を後にして、もう5日。
あの男が残した跡は、ほぼ消えた。
なのに。まだ、首筋がチクリと痛む気がする。
シャワーに入っても、できるだけ首元は見ないようにしてきた。
もちろん電話もしていない。
景吾の視線も、激しさも、何もかもが怖くてたまらなかった。
怖くて・・・本当は真田に打ち明けて、彼に助けて欲しかった。
でも、言えない。なんて言えばいい?
ただ変わらない穏やかな真田に心がホッと弛緩する。
それだけでも救われるような気持ちで、は助手席に身を沈めていた。
景吾は、あの日からの電話を待っている。
携帯の番号は仕事の打ち合わせに使う・・・と言って、すでにお互いが交換していた。
強引だったと思う。
泣かせてしまった事に、多少は良心が痛んだ。
だが、すぐに欲しかったのだ。
いい訳にもならない事を思っては、携帯を閉じたり開いたりして考える。
どんな女も、すこし、その気を見せれば靡いてきた。
キスして泣かれたことなど初めてだ。
多少乱暴だったのは認めるが、のこのこと男の部屋に入ってきたのは無防備すぎる。
そんな計算もできない初心な女だったのか?
震えていた細い肩。
瞳に涙を湛えて、逃げるように背を向けた彼女の背中が目に浮かぶ。
無意識に溜息が落ちた。
彼女と別れてから、もう何度目か分からない溜息だった。
はマンションの前まで真田に車で送ってもらった。
「家で仕事をするんじゃないぞ。早くに休むんだ。」
「分かった。」
「じゃあな。また電話する。今度は夕飯を一緒に食べよう。」
「ええ。楽しみにしてる。今日はありがとう。気をつけてね。」
「ああ。おやすみ」
車を降りて、運転席の窓越しに会話をする。
真田はに優しく微笑むと、エンジン音を残して去って行った。
彼の車が角を曲がるまでテールランプを見送って、ひとつ息を吐く。
重い心と足を引きずって、マンションのエントランスに向かったところで、は息が止まりそうになった。
明るいエントランスの光りを背に、一人の男が立っている。
それが誰なのか、には瞬時に分かってしまった。
逃げなきゃ。
最初に浮かんだのは、それ。
その後は『どうして?』が頭を駆け巡る。
男は一歩一歩、自分に向かってくる。
徐々に明らかになっていく顔は・・・彼なのに。
足がすくんで動かない。
「そんなに怯えた顔をするな。何も、しやしない。」
彼の静かな声が闇に溶けていった。
顔をこわばらせて動けないに、ほんの少し困った顔をして脇にある公園を親指で指す。
「あっちで話をしよう。俺がなんかすれば叫べばいい。あそこなら、すぐに誰か来るだろうよ。」
苦笑して、の返事も待たずに景吾は歩き始めてしまった。
数歩進んで「来いよ」と、前を向いたまま言う。
彼の雰囲気がこの前と違う気がする。
は躊躇いながらも、彼の背を追って一歩を踏み出した。
マンションの隣に作られた小さな公園。
白のペンキで塗られたベンチが闇の中に浮かんでいた。
景吾は先に腰をおろすと、を隣に促した。
彼女は、人が一人座れるぐらいの距離をあけて腰をかける。
しばしの沈黙後、景吾が切り出した。
「おい」
ビクッとの体が跳ねた。
その様子だけで、彼女がどんなに怯えているのかが分かってしまい複雑だ。
「そんなに俺が怖いか?」
返事はない。
俯いたの横顔に、今日は下ろしている長い髪が風に揺れていた。
「分かった。もう・・・お前の許可なしでは触れないと約束する。それでいいだろう。」
景吾の意外な言葉に、はぎこちなく顔をあげた。
なんとも間の悪いような顔をして、景吾が下を向き膝の前で組んだ手を見つめていた。
薄暗い外灯に照らされる彼の横顔に後悔を見て、の気持ちが僅かに動いた。
「俺はお前が欲しい。それに変わりはない。お前は、どうして欲しいんだ?何を望む?」
「わたし・・・」
久しぶりに出した声は掠れていた。
反応が返ってきたことに景吾が顔を上げ、初めて真っ直ぐに二人の視線があった。
「・・・優しくして欲しい」
景吾の瞳が大きくなる。
口にしてしまってから、は自分の言葉の意味を知り慌てて唇を押さえた。
「あ・・あの、違うんです。もっと、ゆっくりというか。私は、あなたのこと何も知らなくて・・・あの」
話しているうちにも頬が熱くなってきた。
私ったらなんて事を言ってしまったんだろう。
自分の口走った言葉に、パニックになるをよそに。景吾は破顔すると言った。
「いいぜ。優しくしてやる。だから、俺様のものになりな。」
言葉も出ない。
優しくするからキスしていいか?
真顔で問う景吾に。
どうしてか抗えないがいた。
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