さよならから始めよう 5
空港近くのホテル。
最上階のスウィートから見る夜景は人気なのだと、どこかで特集されていたのが頭を掠める。
『お前を抱きたいんだ。全部、俺のものにする。いいか?』
まだ、返事をしていなかった。
言葉を失ったに、景吾はそれ以上聞かなかった。
黙って車を走らせて始めから決めていたかのように、このホテルに車を滑り込ませた。
さっさと運転席から降りてしまう景吾。
は金縛りにでもあったかのように動けず、駐車場の壁を見つめていた。
助手席のドアが外から開き、目の前にいつも触れてくる彼の手が差し出される。
「降りて来いよ」
景吾が静かに言って、花束を抱いているの手を軽く握った。
それに促されて、は車を降りてしまった。
目の前に立った自分に景吾が満足した微笑を浮かべたのを見て。
車を降りることは『yes』なのだと、は知ったのだった。
逃げたければ逃げればいいのだ。
彼がフロントでサインしている間に黙って帰ればいい。
引き止められたとしても、人の目がある場所だ。
乱暴な事は彼にだって出来ないはず。
なのに、足が動かない。力が入らない。
膝が小さく震えて動けない。
フロントに立つ景吾の背中を見つめながら、は小さな真実に気づいていた。
怖い。彼が信じられない。
なのに。彼に触れられても嫌悪を抱かない。
それどころか、甘く痺れるような感覚にさらわれそうになる。
惹かれている。
彼には遊びでも。
「行くぞ」
キーを持つ景吾が戻ってきた。
逃げる・・・という選択は。もう、なくなっていた。
ガラス張りの煌びやかなエレベーターの中。
は、どこか虚ろな瞳で夜景を見ていた。
隣の景吾も黙って外を見ている。
「俺は空港の明かりを見るのが好きだ」
「え?」
唐突な会話にが反応する。
「色とりどりの明かりが、乗客を乗せた飛行機を誘導する。美しいだけじゃない。 大事な意味がある。
あの明かりの元に、空港で働く奴も、旅立つ奴も、帰ってくる奴も集うんだ。
なんとなく・・・いいだろ?」
は返事もせずに景吾を見上げていた。
瞳を柔らかくして窓の外に広がる空港の明かりを見つめている彼の横顔に、
ほんの少し本当の景吾を見た気がした。
跡部邸で庭を見ていた時と同じ感覚だ。
少し肩の力が抜けた。
景吾が好きだという空港の夜景を、もエレベーターが止まるまで見つめていた。
靴音をすべて消してしまう絨毯の上を歩き、ある部屋の前で立ち止まる。
景吾は躊躇いもなく鍵を差し込んでドアを開けてしまった。
ドアを開けたまま景吾が待っている。
進めば傷つくかもしれない。
愛してなど貰えないかもしれない。
別れは・・・すぐに訪れるのかもしれない。
分かっていながら進む道。
これも恋なのだと。
は一歩・・・部屋に足を踏み入れた。
「いい子だ」
囁きと同時に景吾の姿が視界から消える。
次には背中に大きな手が添えられ、膝裏を軽々と持ち上げられたら。
体を包む浮遊感。
思わずは景吾の首に腕をまわして縋りついた。
彼の背中で花束が揺れる。
「・・・優しくする」
景吾が耳元で囁いた言葉に泣きたくなった。
抱き上げられてベッドまで運ばれるのだろう。
コツン、と。
のヒールが足から脱げて落ちていった。
「ああ。分かった。そうだな・・・1時間足らずで戻れるだろう。ああ。佐々木と青山を呼んでおけ。」
ぼんやりとした意識の中で、くぐもった景吾の声を聞いていた。
部屋の中は薄暗い。遮光カーテンがひかれているのだろう。
徐々にハッキリした視界に、しおれた花束が映った。
あのままベッドに運ばれてしまい、花束はテーブルに放られてしまったから水あげができなかった。
髪をかきあげながら、のろのろと体を起こしていたら、
ドアが開いてワイシャツ姿の景吾が入ってきた。
すっかり何時もの姿になっている景吾に、露な姿の自分が恥ずかしい。
慌ててシーツを引っ張り、肩まで覆い隠す。
景吾は少しだけ口元を緩めると、ベッドに腰をかけてを見つめた。
「コールしてもらえるように頼んであるから、もう少し寝てろ。
面倒な事があって、俺は今から社に戻る。
車に残してある荷物はフロントに預けておくから、ひとりでも帰れるな?」
コクン・・・とは頷いた。
景吾はクシャッとの髪を撫でると、すぐに立ち上がる。
「また電話する」
ドアを閉めるときに、ひと言だけ残して景吾は行ってしまった。
少しの間、彼の気配がしていたが。
ドアの閉まる音がして、その後は全く音がなくなってしまった。
置き去りにされたは泣いてしまった。
寂しくて。心細くて。哀しくて。
それでも、彼に惹かれて。
抱かれたことを後悔していない自分が哀しくて。
は泣いてしまった。
ハンドルを握る景吾は、昨日と同じスーツを着ている自分に呆れていた。
初めてこんなヘマをした。
女性とホテルで過ごしても朝まで添い寝してやる趣味はなかった。
ことが終われば、さっさと帰る。
熱が冷めてしまえば、女の相手など煩わしくて。
優しくしてやろうなどと考えたこともなかった。
なのに。昨夜はどういう気まぐれか、を抱いた後も帰る気がしなかった。
睫毛を濡らしながら自分の胸に擦り寄って眠ってしまったを一人にする事ができなくて。
そのまま腕に抱きこんで朝まで眠ってしまった。
明け方に腹の立つ電話に起こされて。
それでも初めての朝に、彼女が目覚めるまで傍にいてやりたいと思う自分がいた。
隣の部屋に行き、しばらく秘書に指示を出したりして電話で済まそうとしたが
海外でのトラブルは簡単に収拾できる問題ではなかった。
仕方なく服を着替えて・・・今に至る。
昨日と同じスーツを着て行けば、どこかに泊まった事がバレバレだ。
景吾らしくないと、秘書も思うことだろう。
チッと舌を鳴らして。
社に着いたら、まず着替えだ。それから・・・と仕事の段取りを立てていく。
ハンドルをきった時、ふと。甘い香りが鼻をくすぐった。
アイツの香りだ。
自然と笑みが零れる。
体の中にみちる満足感は心地よいものだった。
まぁ、悪くはねぇ。
そう、呟いて。
見えてきたオフィスに、頭を切り替えたのだった。
同じ時間。が独りで泣いていることも知らずに。
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