ただ、愛しい。10 『境界線』
週末の夜、いつものバッティングセンターで私達は待ち合わせをした。
小気味良い金属音と共に白球が緑のネットに飛んでいく。
特別ストレスが溜まっているようには見えない乾は、肩の力を抜いて楽しそうにバットを振っていた。
ワイシャツ姿に緩めたネクタイ。
スタイルのいい男は見ているだけで目の保養だ。
「やっぱり160キロは速いな」
「バットに当たるだけスゴイんじゃない?」
フェンス越しに眺めていた私が声をかければ、振り向いた乾が嬉しそうに笑った。
夜の交差点を他愛ない話をしながら歩く。
背の高い乾を見上げるのに少し違和感がある。
なんでだろうと考えて、それが距離の違いだと気付いた。
この前までは自然に話ができる程度に離れて話していたから平気だったんだ。
今は乾の長い指が私の指にからんでいるから、必然的に体が近くなる。
そうなると無理して顔を上げないと話ができないから目線が違っていた。
友達から恋人へ。
その変化は嬉しくもあり願っていた結果だったはずだけど、実際になってみると戸惑いも多い。
触れてくる乾の指が気恥ずかしくて堪らなくなるし、これまでと違った甘い眼差しに頬が熱くなる。
以前から良い声だと意識していた乾の囁き声にいたっては、もう耳を塞ぎたくなるような恥ずかしさを私に与えた。
「それはそうと、また香水を変えた?」
不意に耳元に唇を寄せてきた乾が訊ねてくる。
くすぐったさに思わず身を引いた私を面白そうに眺めてる乾は確信犯らしい。
「友達のフランス土産」
「それ女?それとも・・男?」
「女です」
ちょっと。メガネのレンズを光らせながら睨みをきかせないで欲しい。
どうも恋人としては心が狭いらしい乾には驚きだ。
「そんなに乾ってヤキモチ焼きだった?」
「あ〜、そうだね」
ついつい口をとがらせて文句を言えば、隣の乾が空を仰いで何事か考えてる。
友達の期間は長いけれど、男性として付き合ったことはないから恋人としての乾は新鮮だ。
なんて答えるかしらと長身を見上げれば、視線を下ろした乾が困ったように笑う。
「たぶん、今まではそうでもなかったと思うんだけど。キミが特別かな」
この遊び人と罵ってやりたくなる。
さらりと『特別』なんて答えられる男は信用ならない。
私の不満げな表情に気付いたのか、乾は目を細めて絡めた指に軽く力を入れた。
「キザな野郎だとか、信用ならないとか思ってるだろ」
「よくお分かりで」
「なんだろう。自分でも不思議で分析してみたんだが・・・俺は焦ってるんだと思う」
「焦る?」
意外なことを歩きながら口にする乾に首をかしげる。
たくさんの人と擦れ違いながら、遠くを見るように乾は考えながら言葉を選んでいるようだった。
「後がないっていうか・・・もしも君を失ったら、俺は恋人だけじゃなく友人も失う
俺にとって君の存在は恋人じゃなくても大事だし、失くしたくはない
そう考えると、こうやって君の手をとるということは大変なリスクを冒すことになるんだ」
言って乾は繋いだ私の手を軽く上げて微笑む。
「恋人になった後に別れてしまったら、もう前のような友達にも戻れないだろう?」
「そう・・ね」
それは私も考えた。
付き合い始めたばかりで、さすがに直ぐどうこうという危機感はない。
だけど考えてしまう。もしも・・・うまくいかなかったら
「だから焦るというか、不安になるの方が正しいか
君を失わないよう、誰にも奪われないように気を配らないとと必死なのさ」
正直に言いきった乾は、それで夕飯はどうすると何でもないように訊いてきた。
ずるいと思う。
何年かの私が知らない時間に、彼はどんな人と出会って、どんな恋をしてきたのだろう。
付き合った人はいるけれど、忘れられない程の執着も、痛い涙も知らないで、淡々と過ごしてきた私とは違う。
乾の過去を惜しみ、嫉妬してしまう自分は嫌い。
なんだか煮詰まってしまいそうで口数が減ってしまった私の横顔を乾が黙って見ていた。
いつもと同じように飲んで、食べて。
アルコールが入るとお互いに調子がでてきて、以前と同じように楽しい時間を過ごした。
緊張するのは別れる間際だ。
会計を済ませ、休日の予定なんかを話題にしながら店の出口へ向かう。
明日はお互いに休み。
もう一歩を踏み出していない私達に見えている境界線。
「あ、雨だ」
「ええ?」
店から出て足を一歩。
乾に言われて足元を見れば、夜目にもアスファルトの色が変わっている。
ネオンに雨が煌めいて、火照った手のひらを差し出すと小さな雫が次々と落ちてきた。
「天気予報が夜中から降るって言ってたけど早かったみたいだな」
「傘持ってないけど・・・」
まだ小雨だ。
傘を持たずに歩いたところで、そう濡れるような雨じゃない。
激しく降りだしたところでコンビニにでも行けば傘は手に入る。
そう考えた私の頭上からトーンを抑えた乾の声がした。
「ウチに来るかい?」
強張った体を近くにいた乾は気付いただろうか。
ゆっくりと視線を向ければ、同じように空を見上げていた乾も視線を下ろしてきた。
悪戯っぽく笑ってでもいてくれれば、軽く返事できたのに。
どうするって、そんな真剣な目で問わないで欲しい。
友達と恋人の境界線を私に越えさせようなんて・・・やっぱり乾はズルい男だ。
ただ、愛しい。10 『境界線』
2010/10/21
戻る テニプリ連載TOPへ 次へ