ただ、愛しい。6 『自覚』











昼間は晴れていたのに、夕方から雲行きが怪しくなってきた。
会社の玄関を出た途端に『降りそう』と思ったけれど、それを敢えて無視して急いだのは約束のせい。
いつもの自分なら少々面倒くさくても、置き傘を取りにオフィスに戻ったことだろう。


ちゃんと取りに行けば良かった。
そう後悔するのは直ぐだったのに。



今夜は乾とオープンしたビアガーデンに行くことになっていた。
二人が春先に出会って、もう季節は夏へと変化している。


季節の移り変わりも早ければ、乾と私との間にある親密度が増すのも早い。
ここ最近は毎日のようにメールのやり取りをし、会う回数も増えていた。



乾には恋人がいないらしい。



むこうは何の躊躇いもなく私の恋愛関係を事あるごとに訊いてくる。
本当に恋人はいないのだから正直に答えているのだが、乾がフリーなのかどうかは分からない。
私が訊ねたなら、きっと乾も嘘偽りなく答えてくれるだろうことは分かっていた。



乾が誰かに想いを寄せているのなら、もう傍にはいられない。


そう思う私がいて、だからこそ訊けなかった。



少し早めに待ち合わせた駅ビルの前に着いた。
人を待つ落ち着かなさに、気分を紛らわせようと道行く人々を観察する。
それでもすぐ着信に気付くよう携帯を片手に待った。



約束の時間を過ぎて三分後にメールが来た。
たった三分でも約束の場所を間違えたのかと不安になっていた私は慌ててメールを確認する。
すると『ゴメン、少し遅れる』との一行メールだった。


お互いに仕事が忙しいのは分かっているから怒りはしないが、少しガッカリしてしまう。
何分遅れるのか訊いてみようかと思えば、再びメールが来た。



『すぐには行けそうにない。先にはじめてて。』



女ひとりでビアガーデンのビールを飲んでろっていうの?
あなたねぇ・・と携帯に向かって思わず独り言。



『忙しいの?日を変えようか?』と送信すれば、
『そっちには向ってるんだ。今、車の中。だから待っててくれよ。』と返信。



向かっているという乾の言葉にホッとして、私は駅ビルの一階にあるカフェに入った。
ガラス張りのカフェなら駅のロータリーがよく見える。
車を降りてくる乾を見つけるのも容易だと思った。


ひとりで生ビールを飲みながら待つよりはいいだろう。



それは正解だったようで、頼んだロイヤルミルクティーを飲みほしても乾は現れない。
暗くなった空は厚い雲に覆われて、とうとう一つ、二つと雨粒が落ちてきた。
はじめに乾と約束した時間からは三十分以上が過ぎている。



「いったい何処から車で来てるんだか。」



雨に降られたんじゃ、ビアガーデンどころの話じゃない。


カウンターに頬杖をついて飽きてしまった景色を眺めていたら、一台のタクシーが停まった。
期待と諦めの半々で見つめれば、待っていた男が姿を現す。


やっと来たかと僅かに弾む気持ちで丸椅子から立ち上がろうとした時、彼に続いて現れた小柄な人に体が動かなくなった。
先に降りた乾は不釣り合いな花柄の傘を広げると彼女の頭の上に差しかけた。
そんな乾を女性が見上げて微笑む。



気づいた時にはトレーを手に店の奥へと逃げていた。
空の器を棚に戻そうとして、自分の手が震えているのを知る。


ふ・・と口元が緩んだ。
ひとり笑いは気味悪いだろうと口元を押さえて、ロータリー側とは反対の出口から店を出る。


可笑しかった。
隠した手の下で唇が笑っている。



馬鹿だ、私ったら。
なにを勘違いし、なにを期待していたんだろう。


乾も馬鹿だ。
こんな所に連れてきて私を女友達なんだよと紹介するつもりだったのか。
いくら恋愛感情がない友達でも、異性の友達って恋人には受け入れがたいものだと分からないのだろうか。


馬鹿だ、馬鹿。
逃げている私が一番馬鹿だ。
お得意の営業スマイルを浮かべて挨拶してしまえば済んだのに。


そして乾を怒ればいい。



『恋人がいるのなら、もっと早くに紹介してよ。
 おまけに連れてくるなら、そう言ってくれないと。
 早く言ってくれれば、そんなに誘ったりしなかったのにな。
 乾は暇なんだとばかり思ってたから。』



きっと乾のことだから笑って言うだろう。



なら俺のカノジョとも友達になってくれると思ってさ。』



だって高校時代にも言われた。
お互いの恋人と仲良くなって、ダブルデートができたら楽しいよねって。



あの時は笑って『いいね』と言えた。なのに今は言えない。
胸が苦しくて、痛くて、とても現実を直視できない。



この痛みの源は・・・乾への想い。



一階にあるゲームセンターを突っ切って、そのまま駅の改札へと向かった。
中に入って階段を駆け下りれば、手にした携帯が震え始める。
ディスプレーには乾の名前が浮かんでいた。



しっかりしなくちゃ。
大きく息を吸い、電光掲示板を見上げた。
もう直ぐに電車が来る。



「もしもし」



明かりに照らされた雨が銀糸の軌跡を残して落ちていく。



?今、どこ?』
「今ね、電車に乗るとこ。」



よかった。乾に普通の声が出せた。



『え?なんで。俺、いま着いたところなんだけど。』
「遅いよ、乾。それに雨が降ってきたし、もう帰る。」


『ちょっと待って。駅って、ここの駅だろう?すぐに行くから待ってて。』
「私、傘を持ってないの。だから雨足が酷くなる前に帰りたい。」


『それなら・・・』



乾が何事か言ったけれど、入ってきた電車の音で聞こえない。
それでよかった。


私は何も聞かずに「ゴメンね、電車が来たから」と大きな声で言い電話を切った。


開くドアから流れてくる人たち。
顔も知らない過ぎていく乗客を見送り、次は私が電車に乗った。


携帯を鞄に入れ、私は入り口近くのガラス窓に寄り添うようにして立つ。
暗くなったガラスに映った自分の顔はひどく情けなくて・・・泣きたくなった。










改札を出たら雨の匂いがした。
さっきより強く降ってるみたい。


雨が降って肌寒くは感じるけれど、今は夏。
濡れたところで凍えることはない。
それでも踏ん切りがつかなくて、暫く駅から空を見ていた。


上空から落ちてくる雨が光って綺麗だと思う。
だから、ただ見ていた。





次の電車が着いたらしい。
後ろから多くの人が私を追い越して行き、体が弾かれる。
それでやっと雨に濡れて歩く気になった。


家までは歩いて十分。
着いたら直ぐにシャワーを浴びて、温かいスープでも飲んで。
そして早々に寝てしまおう。


目覚めた時、乾と再会する前の私に戻っていればいい。



雨に濡れて光りを反射するアスファルトにヒールを下した。
一歩、二歩と足を進めた時、突然に後ろから肘を引っ張られる。


不意打ちに目を見開き振り向けば、そこには紺色の傘をさした乾がいた。



「ど・・したの?」
「一本あとの電車で追いかけてきたんだよ。こそ、どうした?」


「なにが?」



思考が混乱している。
ここは私の使う駅で、乾の使う駅は二つ手前のはず。


なぜ、乾が私の腕を掴んでいる?



「なにがじゃない。そんな目で俺を見るなよ。」



そんな目?
私は・・・どんな目をして乾の前に立ってる?



「我慢できなくなる。」



ボソッと呟いた乾は、素早く私の肩を抱きかかえるようにして自分の傘に入れた。



















ただ、愛しい。6 『自覚』 

2008/03/03




















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