ただ、愛しい。8 『分からない』
あの日、乾は私を追いかけてきてくれた。
それは純粋に嬉しかった、でも・・・
軽く飲んで、他愛ない話をして、いつもと同じような時間を過ごしたはず。
なのに私の中で何かが変わってしまった。
君が濡れるのは嫌だからと、強引に渡された乾の折り畳み傘。
彼の家の方が駅から遠いと思うのに、絶対に駄目だと譲らなかった。
傘を返そうとする私の手に彼の大きな手が重なって、鼓動が速くなったのは内緒。
渋々と受け取った私に満足した笑みを浮かべ、
またねと駅に向かって走り出した乾の背中を見送っていたら胸が切なくなった。
近くにいるようで、本当に近いのか分からない。
乾は昔から優しくて、その優しさは大人になって更に居心地の良いものになった。
勘違いしてしまうのが怖い。
男女の間に友情は成り立たないというけれど、ずっと上手くやってきた。
それを壊してしまうのはとても辛いことだ。
乾が差しかけた花柄の傘が今も瞼の裏に浮かぶ。
昔のように『あの人とは本当に何もないの?』と無邪気に聞けないのが今の私だ。
どうしていいのか分からない。
再会した男友達に心を揺らす日が来るなんて、思ってもいなかった。
夜のオフィスで携帯が震える。
名前を確認すると、緩む口元に気をつけながら電話を取った。
「もしもし?」
『今夜は空いてるかい?夕飯を食いそびれたから君もどうかと思って』
「まだ残業中」
『それなら君の会社の近くに行くよ』
「いつ終わるか分からないし・・・他に誰か誘える人はいないの?」
パソコンの画面を見つめながらの会話。
だけど手は止まったまま、乾の言葉を息をつめて待っている。
『しか思い浮かばないから誘ってるんだろう?』
簡単にくれる、欲しい言葉。
嬉しくないわけではないけど半分にして聞かなくては。
友達の域からはみ出さないように。
この前みたいな動揺はしないように。
期待はしないで、乾には恋人がいるものだと思って付き合うぐらいがちょうどいい。
「どうしてもって言うなら行かないでもないけど・・・」
『じゃあ、どうしてもと言うよ』
「あのねぇ」
『がいい。君じゃなきゃ嫌だ』
ああ・・もう、と目頭を押さえた。
気持ちが揺れてる女に言うセリフとしては最悪だと思う。
「乾はしっかり経験値を積んだんだ」
『なに?聞こえなかった』
「なんでもない。分かった。三十分で済ませる」
『了解。そうだな、店は・・・』
乾の告げる場所をメモして、電話を切った。
明日でも許されるものは後に回し、集中して取り組めば効率よく仕事は片付いた。
これから毎日約束があれば、随分と仕事のできる女になれそうだと苦笑する。
ひとつ今夜中に欲しい資料があったけれど仕方がない。
私は資料を頼んでいた後輩に置手紙をしてオフィスを出た。
うちのビルからは十分足らずの店。
藍染の暖簾をくぐれば家庭的な雰囲気の女将さんが明るく声をかけてくれる。
女将の声に振り返ったカウンターの乾は私に気付くと軽く手をあげた。
ワイシャツ姿の乾はネクタイが汚れないよう肩にかけている。
肩にかかる鮮やかな赤が彼の肩幅の広さを教えてくれて、うっかり胸がときめきそうになる。
「ごめんね、待たせて」
「あ・・・うん」
詫びながら腰を下ろしてコートを脱ぐと、隣の乾が気の抜けた声を出した。
不思議に思って顔を覗きこめば、何でもないと他所をむく。
「なによ?」
「いや」
「何かついてる?」
化粧は簡単に直して出てきたが時間に追われていた。
何か変なことになっているかと不安にもなる。
つい自分の服装を確認して乾を見れば、溜息と共にビールを飲んでいた。
「ちょっと。その反応、気になるじゃない」
「え?ああ・・・香りが違うと思って」
「香り?」
「いつもより甘い香りがするなと思っただけだよ。香水、変えた?」
目が丸くなってしまった。
その後には急に気恥ずかしくなってしまう。
私はわざと荒々しく手を拭き「とりあえず私もビールください」と女将に注文した。
「そんな照れなくても」
「いつからそんなに鼻が良くなったのよ」
「別に良くもなってないけど。もうの香りは覚えたからね」
さらりと言って、カウンターに肩肘をつく姿は嫌になるくらいサマになる乾だ。
女友達相手に無駄なフェロモンを振りまいてどうするつもりかと内心で悪態もつきたくなる。
「貰ったのよ、香水」
「誰に?」
間髪入れない質問。
乾は唇に笑みを浮かべ、人をからかう気が満々の様子だ。
「今、一緒に仕事をしている人に」
「それ、男?」
「男だけど・・・」
「それで早速つけてるってわけだ。ソイツに気があるの?」
「違います。新商品の撮影に使った残りだけどってくれたの。いい香りだからって言われて」
「つけてみたと」
「新しいものって試してみたいじゃない?」
「まぁね」
聞くだけ聞いておいて興味を失ったのか、乾は黙々と小鉢を食べ始めた。
恋バナでも出てくるかと楽しみにしていたのだろうが、残念でしたねと思う。
そこへビールがきて、まずは乾と乾杯。
するといつもの雰囲気が戻ってきて、私たちは他愛ない話をしてグラスを空けた。
乾の皿が空っぽになった頃、私の携帯が鳴った。
誰かと思えば資料を頼んでいた後輩で、私は乾に断って席を立つと電話に出た。
『あ、さん?酷いじゃないですか。人に頼んで先に帰るなんて』
「ゴメン。だから謝罪文を残しておいたでしょう?」
『俺は取材が長引いて夕飯も食ってないのに探してきたんですよ?それなのにメモ一枚って』
「夕飯も食べてないの?本当にゴメン。今度、なんか奢るから」
『んじゃ。今晩、奢って下さい。俺の背中とお腹はくっつきそうです』
「今から?それは、ちょっと・・・」
思わず乾を確認すると、ジッと私のほうを見ている。
微妙なお愛想笑いをして乾に背中を向けた。
『なんで?さん、どこにいるんですか?俺、どこにでも行きます。なんなら家にでも』
「それは困るかな」
どう断ろうかと悩んでいたら新たな客が暖簾をくぐってきて、元気な女将の声がした。
『さん、飲んでますね!?許しませんよ。場所を言えっ』
まったくもう。目をかけている後輩とはいえ、世話が焼ける。
私は溜息をつき待ち合わせの場所を考えた。
席に戻ると乾は日本酒にうつっていた。
私の方にもお猪口を差し出し、美味しいよと微笑む。
受け取った日本酒を口に含めば、まろやかな甘みが広がった。
「仕事?」
「そんなもの。ごめん、乾。ちょっと次に行かないといけなくなって」
「次?」
「仕事を頼んであった後輩が夕飯も食べずに働いたって拗ねてるから」
「だから?」
あ、乾がこっちを見ない。
やっぱり気を悪くしたかなと思うけど、もう後輩と約束してしまった。
「夕飯を食べさせてあげなきゃいけなくて」
はぁと盛大な溜息をつかれてしまった。
「は後輩の胃袋の世話までしてるんだ」
「今日は特別よ。乾の誘いがなければ彼を待ってるつもりだったの。だけど置いてきちゃったから」
「後輩は『彼』なんだ」
「ええ?」
乾は何もない壁ばかりを見つめて淡々と話す。
その横顔は、なんだか拗ねているように見えなくもない。
「乾も拗ねるわけ?」
悪戯半分で尋ねたら、緩慢な動きで乾が私の方を振り向いた。
むけられた視線に鼓動が跳ねる。
真っ直ぐに私を見た乾が酷く真剣な表情で口を開いた。
「横取りされたら拗ねるだろ、ふつう」
唖然とする私に乾の手が伸びてくる。
カウンターに置いてあった手が驚くほど熱い手に掴まれた。
無意識に引こうとした手が動かない。それだけ強く握られた手に心拍数が上がっていく。
「行くなよ、」
店内のどこかで誰かが大声で笑った。
ただ、愛しい。『分からない』
2009/04/07
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