月とすっぽん 完結編 2
今日も遠くから景吾を見つめる。
平社員とはいえ、創業一族の御曹司だ。
仕立ての良い高級スーツを身にまとって歩く姿にはオーラが立ちのぼって見える。
どこにいても輝くのは景吾の持って生まれた才能なのか、はたまた恋する私の幻覚か。
「素敵すぎだわ」
「何がですか?」
山のようなファイルを抱えて呟いたら、その上に数冊のファイルが追加された。
質問と一緒にファイルを乗せたのは五百蔵さんで、気配もなく人の後ろに立つのが得意な人だ。
すべり落ちそうなファイルに慌てる私を助けようともせず、
五百蔵さんは視線をめぐらせると「ああ」と暢気な声をあげた。
「景吾さんですか。確かに素敵ですね」
「わぁ」
相槌をうつ前に一番上のファイルが落ちた。
廊下に間抜けな私の声が響き、エレベーターの前に立っていた景吾が振り向く。
が、私の姿を見て表情を変えることもなく、そのまま開いたエレベーターに乗り込んでいった。
無視ですよ、無視。せっかく会えたのに、へこむなぁ。
「はいはい、落ち込まない。笑顔も秘書の仕事ですよ」
分かっているような事を言い、五百蔵さんがファイルを拾ってくれた。
とりあえず礼を言う私に向かい、優しい笑みを浮かべる。
美形の笑顔だけれど、これも仕事なのかと思わせる完璧な笑顔だ。
「それ、上の二冊は三階の管理室に。次の二冊は・・・」
次々と五百蔵さんの口から出てくる場所に人。
両手がファイルでふさがっている私は言われたことを暗記するしかなく焦る。
間違えたら、綺麗な笑顔で五百蔵さんに説教されるのは必至だ。
秘書課というと格好はいいが、ほとんど雑用係の私。
テキパキと働く五百蔵さんの後につき、言われたことを必死でこなすだけの毎日。
五百蔵さんは社長秘書も務めていたヤリ手なのだそうだが、今は秘書課全体を管理しているらしい。
まだ三十代の半ばに見える五百蔵さんは優秀な人だ。顔もいい。
でも、嫌になるくらい細かい。こんな人とは分かり合えないと私は苦手にしている。
「はい。では、十五分以内に行ってきてください」
「十五分ですか?」
「そうですよ、同じビル内ですからね。戻ってきたら次の仕事があります」
言って、五百蔵さんが腕時計を確認した。
五百蔵さんが十五分と言えば、十五分だ。一秒たりともオマケしてくれない気がする。
「い、いってきます!」
「いってらっしゃい。あ、廊下は走らないで下さいね」
ちっ。見破れていたか。
心の中で舌打ちしつつ、競歩のごとく足早に目的地を目指す私だった。
上へ下へ、西へ東へ。
雑用をこなし、五百蔵さんの後ろで見事な仕事ぶりを観察して一日が終わる。
他の人たちは美しい姿のまま退社の時間を迎えるようだが、いつも私は白い灰と成り果てていた。
「さん。言いにくいのですが、忙しくても化粧直しはしてきてください」
「はい?」
「それなりには可愛らしい顔をしているのですから、メンテナンスはしっかりしてくださいね」
それなりには可愛らしい顔って・・・ほめているのでしょうか?
メンテナンスしないと、地の顔は可愛くないと貶しているのでしょうか?
朗らかに辛らつな五百蔵さんに言われ、『もう帰るだけなのに』と愚痴りながら化粧直しに向かう。
鏡に映る私は以前に比べると垢抜けた感じだが、表情は疲れている。
ぎゅっと景吾に抱きしめてもらえば復活できるのにな。
今日、ちらりと見ただけの景吾を思い浮かべて溜息。
冷たくされるのは学生時代から日常だった。
付き合ってることを隠しもしないけど、大っぴらにもしない。
確かに『恋人』と呼んでも差し支えない間柄なんだろうけど、世間一般の恋人たちとは違う。
それは・・しょうがない。
だって相手は跡部景吾なんだもの。
景吾が私を想う何百倍、何千倍も、私のほうが景吾を愛してる。
どんなに不釣り合いでも、想いの大きさが全く違っていても、
月に手を伸ばしてしまった『すっぽん』なのだから我慢するしかない。
声…聞きたいな。
今晩も留守電かもしれない。
そうは思ったけど、電話をすると決めたら元気が出る。
戻ったらお姉様方が待ち構えているとも知らず、ひとり鏡に向かって気合を入れた私だった。
三十分後には小奇麗な洋風の居酒屋に座っていた。
目の前には営業課の男性が数人いて、まるで合コンのような雰囲気を醸し出している。
けれどお姉様方には自慢のカレシがいるとのことで、これはただの飲み会かと思われた。
「あの・・五百蔵さんは」
「なんで五百蔵さん?あの人が、こんな席に来るわけないでしょ」
「そうなんですか?」
「本当ならさんみたいな派遣の新人につくような人じゃないのよ。エリート中のエリート」
「そ、そうですよね。そんな感じです」
「うちの課に派遣の人なんて初めてだし、完璧主義の人だから放っておけないのかもね」
私の頭では正規に試験を受けて入社できる会社でないことは確かで、
足手まといというか戦力になっていないことは明白だった。
景吾の力で入れてもらったのが後ろめたく、五百蔵さんにも申し訳ない気持ちで一杯になる。
私だったらオフィスの清掃員とか、社食のレジぐらいが相応だと思う。
今からでも変えてもらえないかなぁと考えてたら、斜め前から男性に話しかけられた。
たまに顔を合わす人で、えっと・・名前は。
「さん、カレシはいるの?」
「はい?あ・・どうでしょう」
「どうでしょうって。俺ら、さんって可愛いなって。なぁ」
「そうそう。で、今日はゆっくり話がしたいと思って」
可愛いですって?
思ってもみなかった展開に慌ててしまった。
なんの冗談かと隣のお姉様方を見たら、そういうことよと微笑まれた。
交際を申し込まれたわけではないけど、なんだか彼らのノリが怖い。
カレシがいることぐらいは言ってもいいだろうか。
なんせ今までモテたことがないものだから、顔は勝手に熱くなるしで言葉が上手く出てこない。
混乱する私をよそに「初心で可愛いねぇ」などと周囲がはやしたてるものだから、
ますますどうしていいのか分からなくなってしまった。
「さんの隣に座らせてよ」
「駄目駄目、あなたは手が早いから」
私を置き去りにお姉様方と男性陣が盛り上がっている。
理由も聞かずについてきてしまった自分を悔いても、もう遅かった。
「まぁ、一杯」
お愛想笑いをする私に注がれるビールが苦い。
どうやって逃げ出そうか。頭の中は、それでイッパイだった。
月とすっぽん 完結編 2
2012/06/11
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