嘘つきな酔っ払い 乾編 4
寝耳に水とは、この事だ。
ハナちゃんとカラオケに行った翌週、俺は同僚から思いもしない誘いを受けた。
「送別会?誰の?」
「誰のって、ハナちゃんのだよ。
アメリカの研究所に出るって、もう随分前から言われてたじゃないか。」
「いつ?」
「先々月だったか・・」
「じゃなくて、行くのはいつなんだ?」
「再来週ぐらいじゃないか?」
ノックをすれば「どうぞ!」と明るい声が返ってきた。
ドアを開けば、俺を見たハナちゃんがいつもの子供のような笑顔を見せた。
なんで気づかなかったんだ。
いつの間にか実験室にあった彼女の私物が消えていっている。
マウスのヒーター脇に置かれたダンボールには横文字の本が整頓され詰められていた。
「アメリカ行くんだって?」
俺の問いかけにハナちゃんの目が一瞬だけ大きくなった。
でも直ぐにニコニコの笑顔で「そうなんですよ」と、おどけたように答えた。
俺は知らなかったし、聞かされてもいなかった。
気づけばハナちゃんと親しく話すようになったのはに別れを告げてからで、まだ日が浅い。
それまでも同僚として言葉を交わす事はあったけれど、俺はハナちゃんに何の関心も持っていなかった。
「希望して?」
「主任に勧められたんです。私のしてる研究をもっと進めてるところがあるから見ておいでって。
向こうも研究員が不足してるって事で、ちょうど良かったみたいなんです。」
「若いのに大抜擢だね。」
「はじめは断わったんですけど・・・チャンスだからって。」
「そうだね。研究するものにとっては逃せない話だ、頑張っておいでよ。」
ハナちゃんは瞳を細め小さく笑って頷いた。
それから彼女が行く研究所の設備や研究内容の話に花が咲いた。
なかなかに面白そうなところで俺も行ってみたいなと純粋に思う。
「時々は俺にも情報を教えてよ。いろいろと興味を惹かれるから。」
「いいですよ。行ったら1−2年は帰れそうにないですからメールでもしますね。」
彼女は明るく言った。
俺は自分のデスクに戻ってディスプレイを眺めながら、微妙な感情が身のうちにあるのを感じていた。
なんだろう、これは。どうにも複雑で掴みきれない思いがある。
自分より経験の浅い彼女がチャンスを掴んだ事による嫉妬か?
いや、彼女と俺とは研究内容が違う。
彼女はかなり革新的な研究を専門としていて俺とは分野が違うから、
渡米は羨ましいとは思うけど悔しいとは違う。
彼女がいなくなるのが寂しい?
ああ、これは確かにあるかもしれない。
手塚が渡米していった時も羨ましいという気持ちと一緒に一抹の寂しさを感じたものだった。
親しく話すようになって日は浅いけれど、彼女の明るさと前向きな思考には救われたものだ。
そんな彼女がいなくなるのは、やはり寂しいと思う。
でもこれはハナちゃんにとってチャンスだ。
仕事にプラスなのはもちろんだけど、なにより水谷と顔をあわせなくてすむ。
これから結婚する想い人を傍で見て行くのは可哀想だと思っていたから、ちょうどいいのかもしれない。
俺はそう自分を納得させて、ハナちゃんを快く送り出すことを決めていた。
久しぶりにから電話がかかってきたのは、ハナちゃんの送別会前日の事だった。
「久しぶりだね、元気にしてたかい?」
『元気といえば元気。元気じゃないといえば元気じゃないの。』
「なんだい、それ?」
の様子が変だった。
何かを言いたいのに言えないというような、もどかしさを感じる言い回し。
『私・・・今、アメリカにいるの。』
アメリカと言われてハナちゃんの笑顔が浮かび直ぐに消えた。
仕事でが渡米するはずがない、彼女がアメリカにいるのは恋人に会うためだろう。
胸に走る痛みに眉をしかめた。
なんだ、まだ痛いのかと胸のあたりを抑えつつも努めて平静な声を出す。
「越前は元気かい?」
『ええ』
「どうした?喧嘩でもしたのかい?」
『ううん、大丈夫』
「何か・・・俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」
俺は目の前にあるボールペンを取り、資料の隅に『』と彼女の名前を落書きした。
ひどく懐かしい気がする文字にフッと笑みがこぼれた時、の声が鼓膜に響いてきた。
『私・・・越前君と結婚する。』
「え?それはまた・・・早いな。再会して三ヶ月もたってないだろう?」
『急なんだけど、』
「越前のヤツ何をそんなに焦っているんだ?だって仕事があるだろう?
いずれは結婚を視野に入れたとしても、もう少し考えた方が・・・」
鼓動が速くなるのを感じていた。
イライラと無意識にボールペンを走らせているが形になっていない。
俺が十年以上をかけてもを手に出来なかったのに、
たったの三ヶ月での生涯を自分のものにするなんて有り得ないだろうと腹が立ってきた。
だが俺のささやかな抵抗などの一言で打ち砕かれる。
『赤ちゃん・・・できたの』
おめでとうと、ちゃんと言えただろうか。
いつもの声で多分言っただろうと思う、曖昧だけど。
資料はメチャクチャなボールペンの線に塗りつぶされ役に立たなくなってしまっていた。
クソ。俺だってを妊娠させることぐらい出来たんだ。
バカバカしい。俺は馬鹿だ。
何てことを後悔してる?
彼女の幸せを願っていたはずだ。
まだ愛していても・・・
最悪な気持ちのまま、俺はハナちゃんの送別会に出席しなければならなかった。
もしも自分が女だったならティシュを抱えて夜通し泣くことも出来たのだろうけど、
生憎と泣きたい気持ちでも泣けなかった。
ダムの厚いコンクリートに堰き止められているかのような想いは、溢れ出すこともできず行き場がなくて苦しかった。
視線の先でハナちゃんは屈託なく笑って、水谷からグラスにビールを注いでもらっていた。
水谷が結婚すると聞いた時、ハナちゃんは溢れてくる遣る瀬無さをどうやって克服したのだろう。
誰に話しかけられても心のない相槌しか打てない俺は酒ばかりが進む。
ヤバイなとは思ったけれど自制する気にもなれなかった。
三次会に行こうと声がかかった時には随分と酔っていた。
陽気な酔っ払いたちに肩を組まれて歩くネオン街の活気が急に虚しくなる。
何をやってるんだと情けなかった。
「俺、帰るよ。」
「なんだよ、もう一軒行こうぜ!」
「いや、結構飲んだよ。もうフラフラだ。」
俺が断わっても、俺以上に酔っ払ってる奴らが手を離してくれない。
その時、俺たちから少し離れた場所で主任と水谷に両方から腕を組まれて飲みに誘われてるハナちゃんがいた。
「いえ、私も酔っ払ってますから。もう勘弁してください!」
「嘘言わないの!ハナちゃんの送別会なんだからさ、行こうよ!」
ハナちゃんは頬を赤くして本当に困ってる。
何が悲しくて失恋した水谷に腕を組まれなきゃならないんだ、カワイソウだろ。
俺は同僚に「やっぱり帰る」と告げて、ハナちゃんと水谷の間に割り込んだ。
「俺、先に帰りますから。ついでにハナちゃんを送りますよ。」
「乾も帰るのか?二人とも次に行こうよ。」
「俺も相当飲んだし、ハナちゃんも酔ってるんだろ?
こんな酒好きに付き合ってたら朝まで飲まされるよ、帰ろう。」
強引にハナちゃんの腕を引けば、水谷の腕がハナちゃんから離れた。
主任と水谷が赤い顔をしてシツコク誘うけど、俺は掴んだ腕を離さないまま適当に挨拶をして歩き始める。
ハナちゃんは俺に引っ張られながら、皆にペコペコと頭を下げていた。
呼び込みの派手なハッピを来たお兄さんたちを横目に、彼女の手を引いて黙々と歩く。
俺のリーチについていけないハナちゃんは小走りになって息を弾ませていた。
「乾さん、ど・・どこへ向かうんですか?」
「ん・・駅。」
「駅、コッチじゃないですよ?」
「え?そうだっけ?」
言われてようやく足を止めた。
そこで俺はハナちゃんの腕を掴んだままだったのに気づいたし、駅の方向を見失ってるって事も知った。
つまりは自分が考えている以上に飲みすぎているらしい。
俺は額に手を当てて溜息をついた。
「なんてことだ。本気で酔ってるらしい。」
「乾さん、すごいピッチで飲んでましたよ。それもチャンポンで・・・。大丈夫ですか?」
「大丈夫・・・じゃない」
手のひらの温もりと柔らかさが、やけにリアルに感じられる。
目の前には心配そうに俺を見上げるハナちゃんの瞳。
アルコールのせいか、ハナちゃんの唇は熟れたサクランボみたいに赤かった。
何もかもが面倒だ。
考える事など放棄したい。
駅がどっちかも分からないんだ。
ただ目の前に君がいる。
掴んでいた腕を引けば、いとも容易くハナちゃんの体が俺の胸にぶつかってきた。
その体を躊躇いもなく抱きしめれば、初めて嗅ぐハナちゃんの甘い香りがした。
深夜の街なのに行き交う人は多い。
だけど誰も俺たちになんか目もくれないだろう。
闇に紛れて誰かと誰かが抱き合ってたって足を止めるヤツなんていないんだ。
「乾さん・・・」
「ゴメン、ハナちゃん。俺、酔ってるから。」
「分かってます。私も・・酔ってますから。」
ギュッと腕の力を強くすれば、しなるようにハナちゃんの体が俺の体に添った。
腕の中の小さな体は泣けるほどに温かくて優しい。
だから馬鹿な俺はハナちゃんを放すことができなかったんだ。
嘘つきな酔っ払い 乾編 4
2006.11.27
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