嘘つきな酔っ払い 3
データ入力に没頭していたら、えらく仕事がはかどってしまった。
いつもは願い下げの残業でさえしたいと思っていたけれど、今日に限って何もない。
誰かを誘って飲みに行こうかしら?
さりげなく同僚に誘いをかけたけど『彼と約束してるのよ』と、あっさり捨てられてしまった。
飲みたいと言っても誰とでも飲みたいわけじゃない。
気を遣わなくてもいい相手と飲みたかった。
こんな時に誘うのは、ずっと乾だった。
ズルイ女だと自分でも嫌になるけれど、乾はいつでも私を甘やかしてくれる。
もちろん彼に恋人がいる間は遠慮して呼び出さない。
そうすると必ず乾の方から『寂しいじゃないか』と電話がかかってきた。
乾の恋も短くて、半年もたずに終わる。
電話がある時はカノジョと別れたよというサイン。
慰めてあげると言いながら、乾に会うとホッとする気持ちはどうしようもない。
いつも独り身になって戻ってきてくれる彼に、私は依存し癒されていた。
今回は駄目よ。
自分に言い聞かせると帰り支度をしてオフィスを出た。
ガラス張りのエレベーターを降りていく間、薄い闇に輝く車のテールランプを見ていた。
目を閉じてしまえば、直ぐに越前君の姿が浮かぶ。
私に残していった彼の感触がなかなか消えなくて甘く胸が疼く。
再会などしなければよかった。
後悔してしまうのが、また辛かった。
エレベーターを降りて正面出口に向かっていたら、後ろから肩を叩かれた。
「おつかれさん。」
「乾!」
「ね、これから飲みにいかないか?」
いつもと全く変わらない笑顔で乾が首を傾けて見せる。
乾の顔を見たら私は泣き出しそうになって俯いた。
ポンポンと優しく頭が叩かれ、ふんわりと背中に手が添えられる。
乾に背中を支えられるようにして、私は会社のビルを出た。
「ここね、研究室のコに教えてもらったんだ。雰囲気いいだろ?」
「新しいカノジョ?」
「いや、残念ながら始まる前に終わった。」
「そう・・・」
乾はサラリと言って品書きを選び始める。
私の好みを知り尽くしている乾は的確にメニューを選んでから「これでいい?」と微笑んだ。
とりあえずビールで、わけもなく乾杯。
一口飲んでから、ふぅと息を吐いた乾がグラスを置いて切り出してきた。
「で、の新恋人は紹介してくれないのかな?」
「・・・いないわ。」
「いない?なんで?俺は思いっきり宣戦布告されたんだけど。」
「・・・断わった」
「馬鹿な、なんで?」
驚いた声をあげる乾の顔など確認できるはずもない。
視線は琥珀色のグラスの中に浮かんでは消える泡ばかりを追いかける。
「なんでも。」
「なんでもって。は越前が、」
「いいの、もう済んだこと。」
「・・・馬鹿だね」
「うん」
俯けば雫がテーブルに落ちる。
乾は何も言わず、私の背中を何度も撫でてくれた。
食べ物は美味しくて、乾が研究室に入った新人の話で笑わせてくれて、お酒はすすみ、夜は更ける。
酔い覚ましに少し歩こうと深夜の真っ直ぐな国道を二人でブラブラと歩く。
火照った頬に冷たい夜風が気持ちよかった。
そう・・・越前君と共に歩いた、あの夜のよう。
「結構飲んだね。」
「いやいや、これぐらいは平気だ。」
「違う、私。」
「ああ、そうだね。この前よりは酔ってるな。」
乾も越前君たちと飲んだ日を思い出しているのが分かって黙り込んだ。
あの夜、私は酔ってもないのに馬鹿をしてしまった。
こみあげる後悔に夜空を見上げれば、隣を歩く乾が立ち止まった。
「。俺のとこ、来るかい?」
「え?」
「俺のとこに泊まれば?」
瞬きも忘れて乾を見つめる。
メガネを押し上げ私の前に立つ人は真面目な顔。
ああ、そうだった。
あの時も乾は真っ直ぐに立ってメガネを押し上げたわ。
『、良かったら俺と付き合わないか?』
あなたも変わらないのね。
生真面目で、大きくて、温かくて、なにより優しい。
あの頃のまま、乾はとても大事な人よ。
「いいえ。大丈夫よ、帰れるわ。」
「そうか。」
「ゴメンナサイ。」
「謝らなくていいよ。」
立ち止まったままの私を追い越して乾が夜空に向かい伸びをする。
長い手が星を掴みたさそうに真っ直ぐ伸びるのが美しかった。
「俺で良ければ、いくらでも幸せにしてあげるのにね。」
「うん。私も・・・そう思う。」
振り向いた乾は笑顔だった。
泣くなよって、少し笑って。
それから直ぐにタクシーを見つけて拾ってくれた。
タクシーのガラス越し、乾がチョイチョイと手招きする。
窓を開ければ、そのまま額にキスされた。
ビックリする私の目を見て、じゃあねと微笑む。
額へのキスはお別れのキスなのね、きっと。
「、逃げるなよ。逃げても逃げても、自分の気持ちからは逃げられないぞ。
傷つく事を恐れては本当の恋なんてできない。
今、俺が実感しているんだから間違いないよ。」
「乾・・・」
「愛してたよ、。せめて君には幸せになって欲しい。」
「私は・・乾に幸せになって欲しい。」
「了解。大丈夫、俺に後悔はないから。先に進める。」
「うん、きっと。」
「ああ、きっと。」
くしゃっと髪を撫でられた。
タクシーは乾を置いて走り出す。
私は子供みたいに後ろを振り返り、乾の姿が闇に紛れて見えなくなるまで探し続けていた。
それから二日たって会社から家に戻るとポストにメモ帳の切れ端が放り込まれていた。
『合鍵、持ったままなんだけど。明日の午後、青学中等部のコートで待ってる。
その後、フランスの方に行くから。絶対、来て。』
その下には筆記体のサインがしてある。
世の人にはお宝になりそうな越前君のサインが、破られたメモ用紙へ無造作に書かれているのが可笑しかった。
卒業してからも高等部のうちはマメに出入りしていたテニスコート。
大きな試合には応援にも行った。
元マネージャーとして後輩を応援に行くのよと言い訳して、実際は越前君に会いたかった。
会うたび凛々しくなっていく彼に胸をときめかせ、それでいて彼に集まる女のコたちに気持ちが沈んだ。
年上の私は恋愛対象外。ただの先輩なのだと、お姉さんぶることで自分を支えていたっけ。
ねぇ、乾。どうしよう?心の中で問いかける。
乾の穏やかな笑顔が浮かぶ。
『行けよ』
きっと乾なら言うだろう。
乾を選べなかった時点で答えは出ている。
私は誰よりも越前君が好きなのだ。今も忘れられない。
過去を悔やんで、先を恐れて、手に入れるのを怖がっているだけ。
ブラインドを上げて、空を見上げた。
今夜は月も星も出ている。明日はきっと晴れだ。
整理できていない心だけど、多分私は行くだろう。
ううん、行かなくちゃ。
じゃないと乾に叱られちゃう。
そう決めて、夜の冷えた空気を吸い込んだ。
嘘つきな酔っ払い 3
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