約束 3
一枚の見えない壁を感じながら・・・遠ざかる手塚の背中を見送った。
結局、タイミングを逃した言葉は告げられぬまま。
淡いぬくもりと痛みだけを残して、家族の待つ家に彼は帰って行った。
仕事から帰ってきた母親の顔も見られずに、
頭痛がするから・・・と夕飯も食べず部屋に閉じこもった。
ベッドにもぐると、まだ恋人の体温が残っていて涙が零れた。
幸せなはずなのに。
涙は止まらない。
翌日は休日。
は本屋へバイトに出かけた。
3年の夏からは受験に向けて休日だけのバイトにしてもらったが、
ここでのバイトはずっと続けるつもりだ。
いつも通りの仕事。
慣れた手つきで本を並べていたはずなのに、ふと気づけば手が止まっている。
深呼吸して仕事に集中しようと試みるが、気づけばまたボンヤリしていた。
午後からは店主に薦められた本を読み始めた。
店内に客はおらず穏やかな時間。
柱時計の時を刻む音が聞こえる店で、と店主がページをめくる音だけが響いていた。
読み始めた本は、Bad endingの短編集だった。
どの作品にも人の出会いと別れが描かれている。
切なくて、哀しくて。滲んでくる涙を拭いながらページをめくった。
どの別れも哀しいのに、何故か読み終わると優しかった。
みんながみんな。
全力で愛して、逃げなかった。
心が壊れてしまいそうな別れにも。
どこか長いマラソンを走り切ったような爽快感と達成感があり・・・希望があった。
誰が悪いわけでもない。
みんな精一杯生きている。
鼻をクシュクシュいわせながら作者の後書きまで読んで、ほぅ・・・と息をつく。
すると、いつの間にか席を立っていた店主が湯気の立つマグカップを手に奥から出てきた。
「どうだい?まだ若い作家の書いた本だけど・・・なかなかだろう?」
「はい。優しい本でした。」
「優しい?うん、そうだね。君なら、そう思うかもしれないな。」
微笑みながら差し出されたマグカップにはココアが入っていた。
ハッとして顔を上げると、やっぱり慰める様な瞳の店主がいて
「心が温まるよ」と優しく言ってくれた。
はポツポツと手塚のことを店主に話した。
彼が海外に行ってしまうかもしれないこと。
どうするのか聞きたいのに、怖くて聞けないこと。彼も話してくれないこと。
彼の心を疑う余地などないのだけれど。
離れてしまったら・・・と不安なこと。
順序だてる事もできず、浮かんできた想いをポツポツ話す。
そんなの話を、店主は黙って聞いてくれた。
「手塚君の夢だから、笑って送り出したい。なのに・・・きっと、できない」
の涙が頬を伝って、顎からポツンとマグカップの中に落ちていった。
手にしたマグカップを両手で包み込んだまま俯くの肩を店主が軽く叩く。
「えらいね。彼が大事だから、彼の夢も大切にしてあげたいんだね。」
「えらくなんか・・・ないです。行かないで欲しい・・・って言ってしまいそうなんです。」
「そうだね。でも、そう言ってしまいそうな自分を君はちゃんと理解している。
もっと自分を信じてごらん。そして彼のことも。
人はね、自分を諦めてはいけないよ。もちろん、自分以外の人間だって諦めてはいけない。
人は人を信じ、諦めてはいけないんだ。
君はいい子だ。大丈夫。君の気持ちは彼に必ず届くよ。」
店主の言葉が心の奥に沁みていく。
私を諦めないこと。彼を信じ、彼を諦めない。
小さな光りが闇に射すような・・・そんな気持ちで、は店主の言葉を胸におさめた。
週があけて、昼休みに廊下で会った二人。
共に過ごした後もメールと電話でやり取りをしたものの、顔をあわせるのは初めてだ。
お互いが目をあわせられずに、ぎこちなく並んで窓の外を見る。
それでも近くなった恋人が傍にいれば満たされる。
この週末に手塚も考えていた。
自分の将来。目の前にある事柄をどうしていくのか。
深く考えて。に告げる覚悟も固めていた。
だが・・・近くに彼女がいると、決心が揺らぐ自分がいる。
いつか。いや、数ヵ月後に。
自分の左隣を見ても彼女の姿を見つけられなくなる。
想像しただけで、その喪失感は暗澹たる気持ちにさせた。
それでも、もう先に延ばすことはできない。
「。大事な話があるんだが。」
「うん」
手塚が窓枠に手をついて、遠くのテニスコートを見つめながら口を開いた。
ああ・・・とうとう、このときが来たと思えば。
の膝が勝手に力を失いそうに震えるのが分かった。
足元が揺らぐ感覚。
それでも、しっかりしなくちゃ・・・と心に言い聞かせて手塚の横顔を見上げる。
そこに、横から声がかかった。
「手塚!監督が留学の件で話があるって・・・」
「大石!」
手塚側から階段を上がって来た大石には、陰になっているは見えていなかった。
いつになく焦った声の手塚に口をつぐんで初めて、が隣に並んでいることに気がついた。
手塚の瞳は戸惑いを隠せない。
大石は手塚らしくない顔を見て、まさか・・・と目で問う。
「話して・・・なかったのか?」
搾り出したような大石の声に、手塚はメガネをあげると溜息をついた。
彼女に何と言葉をかければいいんだ?
「ううん、知ってた。」
意外な言葉が背中から聞こえて、手塚はを振り返る。
大石も瞳を大きくしてを見つめた。
「手塚君の部屋で・・・偶然にパンフレットを見てしまったの。だから・・・大丈夫よ、大石君。」
は微笑んでいた。
それは心からの笑顔でないことぐらい分かったけれど。
彼女は大石を気遣い、懸命に笑顔でいようとしている。
「大石、すまない。二人で話をさせてくれ。監督のところには放課後に行くから。」
「分かった。あ・・・俺、本当にゴメン。」
「いや。悪いのは俺だ。」
大石はにも頭を軽く下げて、もと来た階段を降りて行った。
きっと監督のところへ行ってくれたのだろう。
「。こんなところで話すのも落ち着かない。外に出よう。」
手塚はを促して屋上に向かった。
屋上へ続く埃っぽい階段を昇る。
は手塚の広い背中を見つめながら、ついて上がった。
屋上につくまで言葉のなかった二人。
強い風に吹かれながら並んだフェンスの前でも、しばらく口が開けなかった。
「・・・知ってたんだな」
「ごめんなさい。」
「が謝ることじゃない。俺が早くに言うべきだった。
つい・・・一日伸ばしにしていた。」
ガシャンと、手塚の長い指がフェンスを掴む。
は長い髪が頬に絡みついてくるのを抑えながら手塚の言葉を待った。
「誕生日の日に・・・話すつもりだった。だが、やっぱり言えなかった。」
「うん。」
「ずっと・・・迷っていて。チャンスなのは分かっているのに、決められなかった。」
「うん。」
「お前と離れてしまうことが・・・決心を鈍らせた。」
「・・・・・うん。」
は目を伏せた。
彼が迷ってくれたこと。涙が出そうなほど・・・嬉しかった。
ありがとう。
もう・・・充分。
も心の中で覚悟が決まった。
ガシャンと。また、フェンスの音がした。
手塚が手を離し、を真っ直ぐ見つめる。
も心を強くして、手塚の瞳を見つめた。
「俺はアメリカに行く。」
「うん。」
は頷いた。
ちゃんと笑えているかしら?
泣きはしない。決して。
「手塚君なら大丈夫。私・・・ずっと応援してる。」
ニコッとが微笑んだ。
その笑顔を見たら。
もう・・・どうしようもない気持ちになって手塚は力いっぱいを抱きしめた。
折れそうなほど細い体を抱きすくめて。
知っていて聞かなかったの気持ち。
知っていて、誕生日の我儘を受け入れたの気持ち。
今。笑顔を見せたの気持ち。
どれもこれも、痛いぐらいに伝わってくるから。
言葉なんかでは、とても言い表せない。
「手塚君・・・夢を掴んで」
囁くような掠れた声が耳に届く。
手塚は返事も出来ずに、ただ力の限りにを抱きしめた。
こんなにも大切な人とは。もう一生、出会えない。
俺にとって。生涯・・・ただ一人の人だ。
この世に変わらぬものなどない。
永遠など何ひとつない。
それでも。
信じてみても、いいだろう?
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