Perfume of love 1


テッドは、ある朝起きたら困ったことになっていた。
とはいっても別段朝一でそのことに気がついたわけではない。散々顔を洗って歯を磨いて朝食を食べて、そうして部屋に戻った途端にいつものように軍主が部屋を訪ねてきたことでようやくそのことに気がついたのだ。
「や、テッド」
「・・・・・・いい加減、本当にいい加減、俺に構うのやめろよ」
「無理」
ノックの音にドアを開けると、いつものように小さく笑いながら彼は挨拶をした。それにテッドもいつものように言葉を返して軽く応酬する。それから彼は部屋の中に入ってくる。
テッドも仕方なく彼を通してその背中をじっと見た。
今日は彼は手に小さなお盆を持っていた。その上にはポットとカップが乗っている。大方、施設街から借りてきたのだろう。彼は暇を見つけては自分の世話を焼きたがる。とはいってもテッドもそれを許すのは茶を煎れたり矢尻の手入れのための砥石を手に入れたりといった簡単なものだけだ。
これ以上のこと――――たとえば掃除であったり洗濯であったりしたそんな、日常的なこと――――を頼んでしまっては、あの老獪な軍師―――エレノアになにを言われるかわかったもんじゃない。
ただでさえこいつは、自分の部屋にくることが多いから。
テッドはつらつらとそんなことを考えて、はたと止まった。
こいつ。
「・・・・・・あれ?」
「なに、どうしたのテッド?お茶入ったよ」
「あ、ああ・・・・・・」
彼に呼ばれてそのまま椅子に座る。香りのよい紅茶がカップの中にゆらゆらと琥珀の色を見せている。相変わらずこいつは茶を煎れるのがプロ級にうまい。
こくりと一口飲む。
ほんの僅かな苦みの後にすっきりと爽やかな香りが際立つ。
「・・・・・・うまい」
「そ?」
彼は満足そうに笑って、自分もカップを傾けた。そうだ。これは彼の癖だ。食事であったり茶であったり、様々な場面で彼は必ず自分よりも後に口をつける。
・・・・・・いや、今の問題は、そんなことではない。決して、ない。
テッドの中で違和感は消えないままだ。
かちゃりとカップをソーサーに戻した。眉根を寄せたテッドを不審に思ったのか、彼が小さく首を傾げる。
「どうしたんだ、テッド?様子がおかしい」
「・・・・・・・・・・・・いや」
これは彼に言うべきか。
瞬間迷って首を横に振った。だがその迷った間がまずかった。
彼はやはりカップをテーブルに戻すと、テッドの額に触れようと手を伸ばす。突然のその行為にテッドの方がぎょっとして、慌ててその手から身を引いた。
「なんだよ!」
「なんだって、熱でもあるか看ようと思ったんだよ。調子悪いならちゃんと言ってよ?テッド、そういうの鈍そうだしさ」
「俺より輪をかけてお前のほうが鈍いだろ」
「僕は頑丈にできてるの」
「嘘つけ。罰の紋章使ってはぱかぱか倒れてる奴が言うセリフじゃない」
そう反撃して、はっとテッドは口を閉ざした。
テーブルを挟んだだけの距離にいる彼を、じっと見る。
薄茶の髪、青い目。それはテッドの記憶にあるそのままだ。彼は罰の紋章の持ち主で、この軍の軍主を務めている。俺は霧の船からこいつに連れ出された・・・・・・というか、こいつに感化されて霧の船を出た。そして仲間になってくれと言われて今、この軍に協力をしている――――。
記憶に誤りはないはずだ。
たとえば双剣を使うことや無茶を平気ですること、小さな彼の癖ですらも覚えているというのに。

彼の名前だけ、ぽかりとテッドの頭から抜け落ちていた。

「・・・・・・・・・おい、この軍はリイマ軍であってたよな?」
「?ん。そうだけど」
「船は、イマリ?」
「・・・・・・なんでまたいきなりそんな確認入ってんのさ」
本格的に彼の表情が訝しげなものに変わった。
しまったと思ったときにはもう遅い。
青い目に力を込めて、じっと見つめてくる。
目を逸らしてみても、彼の視線は強すぎてそのまま逸らし続けることすらつらいのだ。こんなことは覚えているのに、どうして肝心の名前だけを忘れているのか自分は。下手すりゃこのまま大惨事だ。やばい。
「テッド?」
「なんでも、ねぇよ」
「・・・・・・テッド?」
「なんでもねぇって」
「・・・・・・もう一度聞くけど、テッド?本当になんでもないんだね?これでなにかあったときにはどうなるか・・・・・・わかっているよね?」
どうなるかわからないからそう言われることは怖いのだ。
しかもこいつはこういうときに平気で紋章使いやがるのだ。そういうところどうにかしろと何度も言ったのに、直す気がゼロだから性質が悪いんだ。
観念して、テッドは口を開いた。
「・・・・・・お前の、名前」
「僕の名前?」
「お前の名前だけ、なんでか、思い出せない・・・・・・」
それを聞いて彼は数瞬きょとんと目を丸くしていたが、やがて肩から力を抜いた。
「・・・・・・そか」
「・・・・・・悪い、なんでかわかんねぇけど、突然」
「僕のことは、わかるんだよね?他の人は?」
「お前が罰の紋章の持ち主であること、この軍の軍主であること、しょっちゅう俺を連れまわしては振り回すこと他にも諸々。きちんと覚えているつもりだ・・・・・・けど、名前だけはさっぱりわからねぇ。後他のヤツラはちゃんと名前もわかる」
「そか」
もう一度、彼は頷いた。
そうして小さく笑う。
「よかった」
次に出てきた言葉は、テッドの予想からは遥かに離れたものだった。
「・・・・・・え?」
「そんなことなら、よかったよ。テッド調子悪いのかと思った」
「そんなことって・・・・・・」
「あ、だけど他の人の名前は忘れないほうがいいよ?やっぱりさ」
平然とそう返す彼に、理不尽な怒りがふつふつとテッドの中に湧いた。
「お前・・・・・・」
「僕の名前はね、テッド」
「言うな!」
告げようとする彼を、咄嗟にテッドは遮った。
「・・・・・・言うな」
もう一度、今度は苦く彼に伝える。彼はどうしていきなりテッドが激昂したかわかっていないのかぱちぱちとまばたきを繰り返している。
「お前は悪くない。お前の名前を勝手に忘れた俺が悪い。だけど、それでも」
わかっていない彼が、無性に悲しい。
「そんなこととか言うな。大事なことだ・・・・・・」
「・・・・・・テッド」
「もっと、お前は怒ればいいんだ・・・・・・」
なんで忘れたんだと罵ればいい。それなのにどうしてそうも平然と忘れられることを受け入れるんだ。
きっとテッドは挑むように眦をきつくした。
「俺が、思い出す」
「・・・・・・」
「忘れたのは俺だから思い出すのも俺だ。絶対に、お前は俺に教えるな」
強い懇願に彼は弱い。だからきっと頷く。
案の定、彼は緩く眉を下げて、それでもこくりと頷いた。ぽつりとなにか呟いたようだったがそれは聞こえない。聞こえなくてもいい。
「絶対、思い出してやるからな」
決意は揺るがず、代わりに彼の青い目が戸惑ったようにゆらりと揺れた。