しかし、奴はおれより上手だった。
全力で駆け出したと見せかけただけだったのだ。
奴は突然スピードを緩め、Uターンした。
「へ?」
突然の方向転換を目では追えても、脚はそうはいかない。
おれは逆方向に向かうエイミーを眺めながら、廊下を走り抜ける。
「え、お。待」
逆方向を見ながら駆けていたため、足元に清掃用のバケツが置いてある事におれは気付けなかった。
思い切りバケツに足をひっかけ、盛大な音をたて、豪快に転がった。
その間にエイミーはある部屋のドアをノックした。
その部屋の主をおれは知っていた。
マルティだ。
まあ、よく考えれば当然だ。
マルティはエイミーの仕事上の相方であり、悪友でもある。
エロ本発見を誰かに報告するならば、それはマルティだろう。
程なくして、マルティが部屋から出てきた。
おれは、まだバケツ・雑巾の用具と絡まったまま起き上がれずにいる。
「何?」
ノックしたのがエイミーである事を確認し、マルティは簡潔に訊ねた。
その問いにエイミーも手にした本を掲げ、
「ジルザの!」
と簡潔に答えた。
「女をおとす100の方法…?」
マルティはエイミーが掲げた本を手に取り、パラパラとめくる。
そこで、ようやくおれは転倒から復活した。
若干雑巾くさくはあるが。
そのまま、マルティたちの下に駆け寄り、
「ち、違うんだ。
おれはそんなつもりじゃなかったんだ」
と言った。
何だ、この状況は。
何だ、この言い訳は。
おれは浮気が発覚した夫か。
内容を簡単に改め、マルティはエイミーに向き直った。
その表情に、先ほどのエイミーのような悪魔の笑みは無い。
赤面や狼狽の表情も無い。
ただ、ひたすらに無表情だ。
そして、その無表情をキープしたまま、こう呟いた。
「ちょっと違うな」
「へ?」
全力疾走の様で他人を鳩が豆鉄砲食ったような表情にさせた、おれ。
そのおれが、今度はその表情にさせられた。
マルティはおれの表情の変化を気に留めず、話を続けた。
「この場合だと、この図解から+5度した方が適度だな」
「…」
何を言っているのだ、こいつ。
いや、何を言っているのかはわかるが。
こいつ、こんな所で内容を批評しだしたぞ。
「こっちの場合は、指は触れるか触れないかぐらいが1番良い」
「……」
「首筋は」
「なあ、マルティ。
今、真昼間。ここ宿屋の廊下」
何も言わないでいると、永遠に批評をしていそうだったので、ツッコミを入れておいた。
「お前もその対応はおかしいだろ」
おれの前に立つ少年は、マルティの話を真剣な表情でメモしていた。