鬼道忍法帖その11
辰は生まれてこの方本当の絶望を味わったことがないと思っていた。
家族は父親のみで、母親は自分を産んですぐに死んだという。その父は日長、自分に何かを教えたはずだった。どうも、そのあたりの記憶が曖昧で、思い出そうとすれば蜃気楼に包まれたようにぼやけてくる。その父親は10歳の頃死んだ。特に悲しいと思わなかった。なぜだろうか?それは辰にもわからなかった。父親は自分に親の愛情を教えてくれなかったからだと思った。変人で他の村人とも顔を合わすことはなく、世捨て人に近い生活をしていた。決して村八分にされていたわけではない。彼は時折村に狼が襲ってきたら退治してくれているのだ。どういった方法を使ったかは不明だが。
父親の死後、それからの辰は幼馴染の左金太の家に住むこととなった。父親と母親、そして姉や弟の5人家族で辰は歓迎された。父が生きていた頃も辰は左金太の家に厄介になっていた。むしろ左金太の家が本当の家だと思った。
辰は家の仕事を進んでやった。もちろん左金太も一緒であった。村は貧しく、最近は世の中も不安定だから女子供は働けるなら働かせるしかないのだ。
それでも村の生活は楽しいものであった。山の中で木の実を取りに言ったり、左金太の姉と一緒にままごとをしたり、左金太の弟と川で遊びに行ったりした。仕事も忙しかったが、充実した毎日であった。毎晩彼らと食事を取り、わいわい語り合いながら、疲れたら眠る。そんな毎日が続いていた。それは永遠に続くと思っていた。大きくなったら自分も百姓となり、嫁をもらい、子を増やし、平和に暮らせると思った。
だが永遠に続くものなどないのである。悲劇というのはいつも空の上を漂い、そして通りかかったらどばぁと落ちてくるものだ。辰の村もそうであった。
徳川幕府が村へやってきて、この村は近く戦になるから出て行けという。そんな話を村人が納得できるはずもなかった。戦になれば畑は潰れる、今まで育ててきた畑の土を幕府の人間や馬が平気で踏み荒らすのは我慢ならなかった。もっと我慢ならないのが幕府の役人がどうせ畑なんだからまた耕せばいいんだとはき捨てたことであった。これにぶちきれた村人がその役人に鍬を叩きつけたのがまずかった。役人は死に、幕兵たちが一斉に村を焼き捨てたのである。
ちょうど辰と左金太は、左金太の母親と共に山で木の実を取りに行っていたのである。さて帰ろうかというときに村の方角からもくもくと煙が上がっているのだ。どす黒い黒煙であった。
辰と左金太は母親を置いて自分たちだけで村へ戻った。そこにはいつもの村の風景が一変していた。家は焼かれ、人の骸が転がっていたのだ。左金太は急いで自分の家に戻ったが、家は焼かれていた。そしてその前で左金太の父親と姉、弟の三人が幕兵に囲まれていた。
父親は桑を持って応戦していた。
ぶす、ぶす!ぶすぅ!
一斉に槍に突かれ絶命した。
いやぁぁぁ!!
姉はそれを見て絶叫した、弟も泣いた。だが彼らは赤く燃え盛る家の中に放り込まれた。
たすけてぇ、たすけてぇぇぇ!
彼らの助けを呼ぶ声が、家の中からした。幕兵たちはそれを見てげらげら笑っていた。
左金太はそれを見て彼らに掴みかかろうとした。だが辰はそれを止めた。今お前が死ねば母親はひとりぼっちになると諭したのだ。左金太は目から溢れる涙を拭おうとはせず、燃え盛る村をじっと見ているしかなかった。
その後辰と左金太は母親の元へ戻り、事情を話すと母親は泣き出した。夫、子供二人を理不尽な暴力で失ったからだ。
その後の彼らは山の中を彷徨い、どこかの山小屋にたどり着いた。母親は落ち着きを取り戻した。しかし、まだ呆けていた。雨が降っていた。土砂降りだった。しばらくは止みそうになかった。食べ物はなく、暖をとることもできない。3人はこのまま凍え死ぬのだろうか?
そこへ小屋に人が入ってきた。女であった。まるで遊女のような着物を着ており、手に三味線を持っていた。なんとなく場違いな女性であることは明白であった。
彼女は持っていた火打石で火をつけると、小屋は暖かくなった。ようやく一息つけたといったところである。
「あんたたち火もつけないで何してたんだい?」
「・・・・・・」
辰たちは答えなかった。否答えられなかったのかもしれない。
「・・・まあいいさね。どうせ小屋の中じゃ退屈だろう?あたしが一曲歌わせてもらうよ」
女は手にした三味線を弾き出した。べんべんと小屋の中に響いていた。なんとなく辰たちの表情が明るくなった気がした。
「・・・うまいね」
「お粗末様。ありがとね。ところであんたたちはこの山の中で何してるんだい?」
「・・・逃げてきたんだ」
「逃げた?誰にだい」
「幕府から。俺たちの村はあいつらに焼かれた。俺たち何もしてないのにいきなり・・・」
実際は村人が役人を殺したので、彼らは報復したに過ぎないのだが、その場にいない辰たちには知る由がなかった。自分たちが襲われた理由は後日知ることとなった。
「幕府ねぇ・・・、あんたら幕府に恨みがあるんだね?そうかい・・・」
女は何が楽しいのかうきうきした口調になっていた。
「そうだ、この山にはねぇ、鬼が出るんだよ?その鬼はねぇ、人の皮を被っているのさ・・・」
女がなぜこんな話をするのかわからなかった。だが女の表情がみるみる人とは違う何かになっていたことに気づいた。
めき、めきめき!
小屋の壁が剥がされた。やったのは小屋より背丈の高い人間であった。それは人ではなかった。肌の色は赤く、口から牙、頭には角が生えていた。鬼であった。それは3匹もいたのである。
「あ、ああ・・・」
辰は腰が抜けた。鬼なんて御伽草紙にしかいないと思っていたからだ。だが、実際目にしたそれはまるで山であった。子供の辰にはそう思えた。
鬼は女の元へやってきた。だが彼らは彼女を襲おうとしているわけではなく、まるで護衛のように彼女の周りに立っていた。
「この山にはねぇ、鬼の住処があるんだよ。あんたたちは偶然この山に入っちまったわけさ。悪いけどここで死んでもらわないとねぇ」
女はけらけら笑っている。まるで鬼が亡者を針の山や血の池に放り込んで楽しんでいるかのようであった。
左金太はぶるぶる震えていた。父親や姉、弟を一度に無くした彼はもう無気力であった。母親も彼を抱いたまま何の感情もなく、ただ呆然としていた。
辰は立ち上がった。辰には身内がいない。家族もいない。村が焼かれても他人事としか思えなかった。今まで左金太の家族に恩返しするチャンス。
辰は女にしがみついた。だが体格差があるため、辰は蹴り飛ばされた。
「あはは、子供があたしに敵うと思っているのかい?」
「や、やってみないとわからないだろ!」
がすぅ!
女は辰の腹に蹴りを入れた。げほげほと咳込む辰。
「そうだ、あんたたちこの坊やを殺しておくれよ。そうしたらあんたらは助けてあげるよ」
悪魔の契約であった。まさに鬼と呼ぶに相応しい女であった。
「・・・・・・」
左金太の母親がぶつぶつ言っている。女は右耳に手を当て聞き取ろうとした。
「なに?何か言ったかい?」
「・・・あたしの・・・」
「?」
「あたしの命でこの子達を助けてください・・・」
「!?」
「親より子供が先に死ねば、その子等は賽の河原で石を積む苦行が待っていると聞きます。それならあたしが死んでしまえばこの子等はそこへいくことはないでしょう。ですから・・・」
「その子はあんたの子供かい?」
「いえ、ですが、この子もあたしの子供です。ですから・・・」
「やだ、いやだ!おっかあが死ぬなら俺が死ぬ!辰だって頃させないぞ!」
親子は互いをかばい合っている。それを女が黙ってみていた。
がぶ!
「痛っ!」
辰は女の太ももに噛み付いた。
がすぃ!
女は辰の頭を蹴った。口から太ももを噛んだ血がついていた。
「あ、あんたが死ねば・・・、俺たち3人は助かる・・・」
「・・・あたしに勝てると思うのかい?子供のあんたが勝てる道理があるとおもうのかい?」
「諦めないぞ・・・、やるだけやらないうちに負けを認めるなんていやだ・・・。絶対あんたをころ・・・、す」
ばたり。
辰は倒れてしまった。
「・・・やれやれ、子供のくせに頑固だねぇ。死んじまったら死者の世界にいけると思うのかい?極楽が実在すると思っているのかねぇ?」
女は辰を優しく抱き上げた。
「あんたたちすまなかったね。ちょいと試させてもらったよ」
二人は事態が飲み込めなかった。いきなり般若が天女のように変わったのだから。
「さぁ案内するよ。あたしらの地獄、鬼哭村にね」
女はにっこりと笑った。まるで地獄の底で仏に出会った気分であった。
「あたしの名前は桔梗だよ・・・」
「・・・夢か」
辰は起きた。左金太の家で眠っていたのだ。
6年前自分たちの村が焼かれ、山から山へ逃げてきたのを桔梗に救われた。あれは入村試験だったのだ。荒っぽかったが、桔梗の心を掴んだのは確かだ。
「そういや、桔梗さまって出会ってから6年あんまり容姿が変わっていないな・・・」
だが辰は女は化粧で化けるものだと桔梗に言われたことがあったので、それ以上疑問を追及しなかった。
「おい、辰。起きたか?御屋形さまがお呼びだ、早く来い」
左金太がやってきた。もう起きて仕事に出ていたのだ。辰はその日は門番をしていた。
「何の仕事だろうな?」
「ああ、確か女をひとり運ぶ仕事だそうだ」
「女?また女をさらってくるのか?」
「違う違う。この間紅之介さんたちが女を連れてきたろう?その女をある場所へ運ぶのさ。確か名前は桧神美冬だったか」
その場所は等々力渓谷。その名の通り滝が轟くのでつけられた名前だ。かつては九角家のあった場所で、怨念深い地である。天戒の占いによれば天海の霊をおろすために必要な場所だという。
「難しいことはよくわからんが、とにかく御屋形さまについていこう」
「女を降ろしたら俺たちはすぐ帰れと命令されているんだ。終われば御屋形さまから連絡をもらう手筈となっている」
さて太陽も真上に昇った頃には辰たちは美冬を木製の十字架に貼り付けた。
「うむ、ご苦労であった。村へ戻ってくれ」
「あの、御屋形さま、ひとつ訊ねてよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
辰は今まで意識不明だった時のことを、左金太から聞いている。世の中では切支丹屋敷の子孫具足奉行の井上重久が拷問パーティを復活させたこと、そして若い女をさらい、それを鬼道衆のせいにしたこと。さらに御神槌が元旗本屋敷に巣くう大蛇の怨念を解き放ち、それを疫病に見せかけ、一気に大勢の病人を増やすことにより、井上の屋敷に病人を移させたことなど。そして囚われた病人たちを解放したことなど。
「どうせならそれらを鬼のせいにしたほうがよいのでは?わざわざ疑いを晴らすなど馬鹿げているのでは」
これは辰の意見であった。自分は鬼だ。鬼がわざわざ江戸の町民の顔色を窺うなど、おかしいのでは?と思った。
「・・・それでは意味がないのだ。大義名分がない」
天戒は苦々しく言った。
「自分たちで起こしたことで人に怨まれるのは承知の上だ。だがな、濡れ衣で恨みを買うのはたまったものではないぞ?幕府どころか商人たちなどにも警戒される。せっかく薬を作って卸している草太郎の努力が水の泡だ。それに町民を助けて恩を売るのも悪くはない。いざとなれば噂を流してくれるからな。我らは幕府に比べれば少人数だ、それを考えて行動せねばならんのだよ」
「なるほど、では、御神槌さまが疫病をばらまいたのはどういうことですか?」
「・・・あれは御神槌の独断であった。嵐王は絶賛していたがな。御神槌があのようなことをするとは、俺も信じ難いのだ。誰かがそそのかしたか・・・」
辰はそれ以上聞くのをやめ、山を降りた。あとはまっすぐ村へ戻るだけだ。二人は駕篭を投げ捨てた。
「・・・なあ、左金太」
「なんだ?」
「ちょいと内藤新宿へ寄らないか?」
「なんで?」
「いや、あの菩薩眼の女が住んでいる場所だぜ?あいつが今何をしているか知りたくはないのか?」
辰にそう言われると左金太もそれもそうだなと思った。なにしろ菩薩眼の女こと美里藍は自分の恩人でもあるのだ。
「いくか?」
「いこう」
そういうことになった。
内藤新宿は人の通りも多く、馬も通るため路上は馬糞がたくさん落ちていた。辰たちは数回ほどここへ来ているからある程度の地理はある。蕎麦屋に入り、ざるそばを頼んだ。
「なぁ最近例の幽霊寺で頻繁に人が出入りしているって本当かな?」
辰の後ろの席で町民が噂話をしていた。
「本当どころか、俺は見たことがあるぜ。若い奴らがほとんどだったよ。中には風流人の霞梅月も出入りしているって話だ」
「へぇ、俺の聞いた話じゃ両国の弁天堂の花火職人や、茶屋のお花、飛脚や隠れ切支丹までいるって話だぜ?」
「色々いるんだなぁ、とても幽霊寺とは思えないね」
「まったくだ」
あっはっはと笑い出した。
「なああんたらその幽霊寺ってのはどこにあるんだい?」
辰が訊ねた。
「あん?ああ、この近くにある寺さ。確か名前はりゅうせんじ・・・」
「そのりゅうせんてのは、龍が閃くと書くのかい?」
「うんにゃ、龍の泉と書いて龍泉寺だよ。おたくら興味があるのかい?」
物好きな奴だなと思ったのだろう。だが辰にとってはその名前が龍閃組に似ているので、興味が湧いたのである。
勘定を払った後辰たちはその寺を探してみることにした。発見して何を得ようというわけではないが、龍閃組の本拠地を見てみたいと思ったからだ。人から聞きながら目的の寺にたどり着いたが、確かに幽霊寺と呼ばれていてもおかしくなかった。塀はぼろぼろ、石畳は苔が生えており、庭はぺんぺん草が生え、荒れ放題。寺自体もぼろぼろでふぅと風が吹いたらそのまま吹き飛んでしまいそうな、危うさだった。近くによって見てみれば襖や障子は以外にピカピカで、縁側も綺麗に掃除してあった。庭には洗濯物が干してあり、大根なども干してあったから一応ここに暮らして生活している人間がいるのは確かであった。
「あんたら、何をしているんだい?」
辰たちはいきなり声をかけられ驚いた。振り向くとそこには一人の女性が立っていた。年は20代後半だろう、中々の美人であった。しかし、どこかしら浮世離れした美しさがあった。幽霊画の幽霊が絵の中から飛び出したらこうなるのだろうか?白百合をあしらった白い着物を着ている。
「えっと・・・、噂の幽霊寺をちょいと拝見させてもらっているんでさぁ、あんたはまさか絵から抜け出した幽霊ではないでしょうね?」
「まだお天道様は真上だよ?こんな明るいときに幽霊がうらめしやと出たところで、3歳の童子だって怖がらないさ。あたしはここに住んでいる時諏佐百合というもんだ」
着物の柄が百合で、名前も百合と来た。二人は感心してしまった。
「いつもはあたしの教え子がいるんだけどね、留守で今ここにはあたししかいないのさ。どうだい、上がってお茶でも飲んでいったら?」
二人は遠慮したが女に引っ張られ、そのまま上がることとなった。
傘はぼろでも心は錦。外見はぼろだが、寺の中は掃除が行き届いており、なかなか手入れがされていた。二人は応接間に通され、女はお茶を持ってきた。
ずずっとお茶をすすると女は二人をじっと見つめた。辰たちは出されたお茶に手を出していない。
「飲まないのかい?」
「いえ、おかまいなく・・・」
もしかしたらここが敵の本拠地かもしれない。そうなるとお茶に毒が入ってもおかしくないのだ。
「ふぅ、疑い深いねぇ、まあ用心することに越したことはないさ。今の世の中じゃねぇ・・・」
女は深いため息をついた。
「この江戸には将軍様はいない。二度目の長州征伐で大阪に行っているんだ。そのせいか町の治安は悪くなるばかり、人心が荒れていくのもむりはないさ。あんたらはどう思うんだい?」
いきなり聞かれても即答できない。辰はややしばらく黙ったあとこう答えた。
「幕府が消えれば問題はないと思うが」
「幕府が消えれば、ねぇ・・・」
時諏佐は少々失望したようにつぶやいた。
「じゃあ幕府が消えたら次は誰がこの国を支配するんだい?」
「さぁ・・・」
辰は返答に詰まった。幕府が消えればこちらは万々歳だが、その後のことは考えていなかった。
「もしめりけんかえげれすに支配されてごらん、清の国(今の中国)のように街中を歩くにも通行料を払わなきゃならない。向こうは南の国の土人をさらい、奴隷としてこき使っているんだ、それをこの国ではありえないと言えないだろう?」
確かにそうである。アメリカでは投票によって大統領が決まるというが、黒人が大統領になったことはない。先住民族であるインディアンを虐殺し、南北戦争でもたくさんの血が流れた。単純に開国すればそれでいい問題ではないのだ。幕府が消えたとしても新しい支配者ができるだけだ。それが幕府よりいいものだと誰が保障できるのか?
「あたしには夢があるんだよ。誰もが自由に学べ、そこには身分階級もない。学校を作りたいのさ」
「寺小屋のようなものか?」
「そうだね。でもちょっと違うね。先生はあくまで先生専門さ。そして生徒はそこでは学びたいことを自由に学べるんだ。文字の読み書き、外国語なんかをね」
「夢物語だ。そんなことできるわけがない」
辰は反論した。
「今この国の子供が学べるわけがないんだ。貧しさで子供を売り、こき使われて死んでいく。病にかかっても医者にも診てもらえない。子供に摘みはない、今の幕府が悪いんだ。あいつらさえ消えれば平和に学べる時代がくる」
「本気で信じているのかい?幕府さえ消えれば幸せになれるって」
辰は返答に困った。
「幕府を潰すためには、人を殺しても辞さないって、理由があるのかい?鬼道衆のお二人さん?」
二人はぎょっとなった。なぜ自分たちの正体がばれたのだろうか?まさかこの女千里眼の持ち主ではないだろうか?
「おや、当たっちまったのかい?こんなぼろ寺にあの子達以外近寄らないからてっきりね」
時諏佐はいたずらっぽい、子供っぽい笑みを浮かべていた。案外、人が悪そうな女性だと思った。
「まあ、あんたらが鬼道衆であろうがあたしにはどうでもいいことさ。あたしらの目的はこの江戸を守ることにある。それはあんたたちも同じさ」
「その甘さが命取りになるかもしれないのに?」
「耳が痛いねぇ。確かに甘いかもしれないさ。今の世の中夢を見るなんて侍以外ありえないかもしれないさ。でもね、夢を捨てるってことは自分の人生を捨てるってことさ。希望って火は時には暖かく、でも下手をすれば火傷をする代物さ。でもそこから夢は生まれるんだ。絶望し、過去にこだわり続ける人間に夢を見る余裕はないかもしれない。でもあたしは夢を見なきゃ希望なんか生まれない、傷つくことはないだろうが、何も手に入れることなどないのだから・・・」
「・・・・・・」
長く話し込んでいたのか、外はすっかり暗くなっていた。辰はすっかり冷えてしまったお茶を飲む干すと、左金太と一緒に帰ろうとした。その時。
かん、かん!かぁん!!
半鐘が鳴り響いた。火事の知らせだ。どこかが火事になったのだろう。
「ふぅ、あの子らがいないのに、まいったねぇ。あんたらはもう帰るんだろう?じゃあね」
時諏佐は急いで火事の現場に向かうつもりのようだ。辰たちはなぜかそのまま帰ろうとはせず、彼女の後ろをついて歩いていった。
長屋が火事になっていた。火はめらめらと木造建築を焼き尽くしていった。消防車もない時代、火を燃え移らないようにするため、木槌で家を壊し、井戸からバケツリレーの要領で家事の火を消していくのである。
「御厨さん!」
甲高い男の声がした。見ると歌舞伎の女形っぽい男が何やら指示を出している。おそらく火付け盗賊改め方の与力であろう、同心がその指示をもらい、行動していた。
「動けない老人や病人、女子供を最優先にすること。風もないから火が飛び散ることはないでしょうけど、十分気をつけるのよ!」
「わかりました榊さん。よし、与助、早く逃げ遅れた人がいないか確かめに行くぞ」
だが与助と呼ばれた少年はなぜか渋っていた。
「えっと親分、あっしらは長屋の人間より、幕臣の屋敷に行って壷と掛け軸を・・・」
「・・・与助、もう一度言ってくれないか?よく聞こえなかった」
「だからあっしらは長屋の人間より、幕臣の屋敷に行って壷と掛け軸を・・・」
ぎゅっ!御厨という男は与助の襟首を掴みかかった。
「貴様ふざけているのか!どこの世界に人命を差し置いて、骨董品を最優先するばかが・・・」
「命令したのはわしだ」
そこに馬に乗った偉そうな男がやってきた。
「ちょ、長官代理・・・」
「我ら火盗改めはただちに全員さるお方の屋敷に赴き、壺などを非難させねばならんのだ。今すぐ行け」
「で、ですが、壺より人の命を・・・」
ばしぃ!
長官代理がいきなり鞘で御厨を叩いた。
「壺より、ここのくずどもの命が大事だと?笑わせるな!こいつらは我ら徳川幕府によって生かされているのだ、それを貴様は。どうせなら数人焼け死んでくれた方が面白いというものだ。いいか、今すぐ行け、丁寧に壺を運べよ。はっはっは」
長官代理は馬を走らせ颯爽と去っていった。
辰と左金太はむかついた。なによりあの男は人の命を何だと思っているのか?命より壺が大事ときたもんだ。辰たちは近くの井戸で水を汲み、それを頭にぶっかけた。本当は鬼道衆が助けに行く義理はないのだが、さっきの長官代理に反発したくなったのである。
「お、お前らは・・・?」
「通りすがりのもんだ。あんたらがだらしないから俺たちが助けに行くんだよ。さああんたらはお壺さまを助けに行くがいいさ!!」
辰の皮肉に御厨はがっくりとうなだれてしまった。
「そいつらの言うとおりだぜ、八丁堀!」
蓬莱寺が立っていた。そばには緋勇もいた。
「上官の命令がなんだってんだ!そんなもん無視して自分のやりたいことをやる!それが男ってもんだろうが!俺はなぁあんたは他の幕府の奴らと違うと思っていたんだぜ?それがなんだその体たらくは?人の命よりつぼが大事か?そんなに上司の顔をうかがうのが好きなのかよ?ええっ、答えてみろよ八丁堀!!」
「京悟・・・、言ってることがむちゃくちゃですよ。世の中の人間がすべてあなたみたいじゃないのですから。御厨さんここは私らに任せてください。あなたはまだまだ火盗改めになくてはならない人間、上官の機嫌を損ねる必要はありません。大丈夫、龍閃組の人間は人間離れした集まりなんです、無事逃げ遅れた人たちを救って見せます。さあ、行ってください」
「ひーちゃん!なんで・・・」
「少しは黙ってください。言い争うひまなんかないのですよ。さあ!」
ばしゅう!!
緋勇が右手をかざすと、戸が吹き飛んだ。そして周りが凍り始めたのである。
「秘拳玄武。人を傷つけず、人を救うために使えるとは・・・。ふふふ」
「あ、ああ・・・」
辰にとって彼らとは二度目の対面であった。だが二人は辰の顔を知らない。内藤新宿で始めての時は辰は負けた。大助たちも。だが技はそんなにすごくなかった。あれから技に磨きがかかったのだろうか?
「さあ、急いでください。あんまり長くは持ちませんから!」
辰たちは一斉に行動を開始した。呆然となった御厨は十手を地面に叩きつけると、井戸水を被り、火の中へと突っ込んでいった。
火は消し止められた。幸い死者はおらず、怪我人だけであった。辰たちは川べりの橋の近くで時諏左と話をしていた。
「龍斗も京悟もご苦労様。特にあんたたちも感謝するよ」
「ええ、彼らが手伝ってくれたおかげで、すんなりことが進みました。ありがとうございます」
「ああ、助かったぜ。あんがとな」
二人は辰たちが鬼道衆だと気づいていないようだ。時諏左は辰にウインクした。どうやら自分たちのことをしゃべる気は無いようである。
「ですが等々力渓谷から内藤新宿の火事が見えた時は驚きましたよ。おかげで鬼道衆の頭目は逃がしましたが・・・」
「なっ!」
おもわず辰たちは声を上げそうになった。
「なんですか?」
「いえ、なにも・・・。そのき・・・、何がしの頭目がどうしたって?」
「逃げちまったよ。捕まえて鬼の村を吐かせたら、そこへ乗り込む予定だった。なんでお前らは幕府の復讐なんて馬鹿なことをするのかってな」
蓬莱寺は鬼道衆の下忍の前で恐ろしいことを言っている。辰たちのこめかみはぴくぴく動いていた。
「ですが、攫われた美冬さんも助けることが出来ました。今龍泉寺にいますが・・・」
「体調が悪いのかい?」
「いえ、なにか変な人が乗り移ったようなんですよ。ここはおれるあんなのかとか、自分はぴせるとか言ってました」
「そうそう!確か髪の色も金色に変わっちまったのさ。天海の代わりに美冬はそいつにとりつかれたようなんだ。まあ悪い奴には思えないから安心だがな」
第3者置き去り状態である。だが辰たちは天戒が美冬という女性を使って、この江戸の磐石を築いた天海の霊をおろそうとした事は知っている。天戒は失敗して、美冬には別の霊が乗り移ったのかもしれなかった。
「この火事・・・、鬼道衆の仕業かねぇ?」
「そ、そんなことあるわけないだろ!!」
辰がとうとう大声で時諏左を怒鳴った。
「それはなぜですか?」
緋勇が訊ねる。辰は自分が鬼道衆だと名乗れないから、しどろもどろになっていた。
「俺は違うと思うがなぁ」
答えたのは意外にも蓬莱寺であった。
「あいつらは目的の人間以外狙ったことはないからなぁ。まあ、御神槌の件もあるし、美冬を攫ったりしたが・・・。連中は少なくとも意味なく人を殺したり、火を放つ連中ではないと思うがね。こいつは俺の勘さ。あいつらとは長く戦ってきたからな、なんとなくだ」
皮肉なことに自分たちの無実を証明したのは、宿敵である龍閃組であった。
「たとえそれが鬼の仕業であろうとなかろうと・・・」
声がした。そこには一人の男が立っており、彼は子供を抱えていた。黄色い頭巾を被り、小さな眼鏡をかけていた。黄色い着物は上半身はまともだが、下の方がぼろ布を縫い合わせたような代物であった。
「誰だ?」
「ああ、長屋に住んでいる支奴洒門て男さ。発明好きの変わり者で結構俺たちの力にもなってくれるんだよ。支奴お前も無事だったんだな」
「ええ、おかげさまで・・・、なっ!」
支奴の顔色が変わった。なぜか辰たちの方を見て驚いた様子であった。
「あ、あんたらは・・・」
「え?ああ、俺たちか。俺は辰。こっちは左金太。俺の友人さ」
「支奴、知り合いなのか?こいつらのおかげで死人も出ずにすんだんだ。感謝しなくちゃな」
蓬莱寺は辰の肩をばんばんと叩いた。だが支奴の顔色は青いままである。
「その子は?」
「え?ああ、この子は火事で逃げ遅れたんです。幸い助かったからよかったものの、この子は一生火事の恐怖に怯えるのでしょうね。あっしは許せないんですよ。もし科学の力があれば火事なんか起こすこともなかったのに・・・。あっしの発明品にもっと力があれば・・・」
「科学?俺たちの知り合いにも科学を利用した発明品を作っている人がいるな。その人もいろいろ薬を作っているが、あんたも同じ匂いがするな」
辰の言葉にまた支奴がぎょっとなった。
「だがね、結局科学ってのは人が使って初めて発揮されるんだろう?」
時諏左が言った。
「使う人間がしっかりしてなきゃ、科学の便利も絵に描いた餅さ。世の中みんな良いことに使うわけがない、悪用したがる人間だっていることさ。たとえ科学の力が欧米以上に進化してもだ。それが即人を救うことにはならないと思うがねぇ」
時諏左の言い分にも一理ある。自動車だってはじめは早く目的地に着くために作られたのに、いつの間にか大量に増え、人の命を奪いかねない凶器となってしまった。そのために運転免許がないと運転できないようにされたが、世の中には無免許でも平気で運転する人間がいる。そのために人が轢かれ、また自分も事故で死んでいく事件が後を絶たない。
「私もそう思いますよ。ようは使う人間がしっかりしてなきゃだめなんです。道具に使われてはだめなんですよ・・・」
緋勇も言った。
「あっしは科学が人を幸せにするものだと信じてます。それはこれからも変わりはないでしょう。あっしはこの子の治療がありますので・・・」
支奴は去っていった。
「科学ねぇ・・・。俺たちが住んでいる村ではそのおかげで豊かに暮らしているがなぁ」
「そうなのですか?よほどそこの村は指導者が素晴らしいのでしょうね」
「おう、素晴らしいさ。なんたって御屋形さまは・・・」
左金太がついうっかり口を滑らせそうになった。しかし、それは別の誰かに中断されてしまったのだ。
どうやら役人のようであった。
「貴様が龍閃組組長、時諏左百合だな?」
「ああ、そうだけど。あんたらは?」
がしぃ。
いきなり役人二人は時諏左の両腕を掴んだ。
「龍閃組が若者を集め、幕府転覆を指揮しているとのとこだ。組長には奉行所まで来てもらうぞ」
「な、なんだと、てめぇ!!」
蓬莱寺が怒り出した。
「なるほど、幕府好みの人斬り集団に育たなかったのがそんなに不服かい」
時諏左は薄く笑った。幕府の滑稽さに呆れているのかもしれなかった。
「京悟、龍斗。龍閃組はあたしがいなくても大丈夫だ。あとはあんたたちで勝手にやっとくれ」
「ま、待てよ百合ちゃん!人を勝手に引っ張りこんで、用が済んだら用無しかよ!てめぇら、百合ちゃんを放しやがれ!」
伝法な口調で役人に掴みかかろうとした。それを緋勇が止めた。
「ひーちゃん!まさか止めるつもりじゃないだろうな !!」
「まさか」
ひゅん!
「ぐぅ!」
風を切る音がしたと思ったら、役人二人がばたりと倒れた。
「理不尽な振る舞いに対して、はいそうですかと割り切れるほど、私は賢くないのですよ」
この男も結構やるものだと、辰は思った。
だが時諏左は逃げるつもりなどなかった。
「あたし一人の首で住むなら、それに越したことはないさ。じゃあね」
彼女の決意は固かった。蓬莱寺は最後までごねていたが、諦めてしまった。結局時諏左はその場へとどまり、緋勇たちは帰るしかなかった。
「まったく幕府は腐っているな。人が死ぬのがそんなに面白いかねぇ?」
左金太が言った。彼は辰と一緒に村へ帰る途中であった。
緋勇たちは「おそらく龍泉寺にも奉行所の手が回る可能性があります。あなたたちは通りすがりの人ですから、早くここからはなれた方がいいですよ。あとは自分たちでやりますから」
緋勇は二人にお守りをくれた。まあもらって損はない。
「これで長きにわたる龍閃組との戦いもおしまいか。あっけないもんだな」
「・・・・・・」
辰は黙ったままであった。現在彼らは村へ続く山の道を歩いていた。
「どうした?」
「ああ、さっき橋で支奴って男と話しただろう?」
「それがどうかしたか?」
「あいつどこかで会った気がするんだよなぁ。どこだろうか?」
口調は軽かったが、声の質はどこかで聞いたことがあるのだ。はて、どこであろうか?喉まで出掛かっているのに。
「そう言われれば確かに・・・。おや?」
左金太が指を指したところには一人の男が立っていた。黒尽くめのマントに鳥の面。嵐王であった。
「おや、嵐王さま。わざわざ我らを迎えに来てくれたのですか?」
「まあな。今九桐どのや桔梗たちは留守だ。若はともかくお前らの帰りが遅いのでな、心配して迎えに来たのだよ」
「それはありがとうございます。そうだ、俺たち龍閃組の組長と話をしたのです。偶然ですが。あと、どうも龍閃組が幕府に裏切られたようで、取り潰されたようですよ」
嵐王は無言のままであった。素顔がわからないからどんな表情をしているのか、わからないのである。
「そうか・・・、それを聞いたら若は喜ぶであろうな」
「我らとしては複雑ですが・・・。あれ?」
辰は嵐王の体から焦げ臭い匂いがした。それと同時におかしな薬の匂いも混ざっていたのである。
「おや、この匂い、支奴って男と同じ・・・」
ばしゅぅ!
辰の喉が切り裂かれた。やったのは嵐王の鎌であった。もちろんただの草刈鎌ではなく、戦闘用の手製の鎌だ。辰は吹き出る血を塞ごうとしたが、手で押さえられるものではない。どさっと倒れ、そのまま動かなくなってしまった。
「ら、嵐王さま、なにを・・・」
ぶしゅう!!
左金太は額に鎌を突き立てられた。そして鎌は左金太の顔をえぐるように直線に切り裂いたのである。もちろん左金太は絶命した。
嵐王は鎌についた血を丁寧に拭うと、ぴぃぃと口笛を吹いた。すると鳥たちが一斉に辰たちの体を足に引っ掛け、そのまま死体を持ち去ったのである。
「・・・すまんな。龍閃組の件はともかく、お前らは知ってはならないことを知ってしまったのだ・・・」
嵐王はぶつぶつ念仏を唱えていた。
「鬼道衆は非道でなくてはならないのだよ・・・。若のため、そして200年以上世襲し続けた嵐王の名にかけてな・・・」
翌日帰ってきた天戒たちは、辰たちが帰ってきていないことに驚いた。
辰たちの探索途中、驚くべき出来事を知ることとなった。龍閃組の本拠地が奉行所に取り囲まれたこと。そこでかつて桔梗たちが幕府の船や、鬼哭村で戦った化け物たちが数十体龍閃組と戦ったこと。それに京都守護職の松平容保や、軍艦奉行の勝燐太郎。なんと将軍の徳川家茂まで駆けつけたというのだから驚きであった。だがこれは極秘中の極秘らしく、桔梗ですら調べるのに苦労したという。だがそれだけ調べていても辰たちの行方は知れなかった。
左金太の母親は息子の行方が分からず、毎日泣いてばかりいたが、それを慰めたのが菊であった。
続く
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