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平氏の政治について





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【平氏について】
 平氏(へいし)とは、源氏(げんじ)とならぶ平安時代の有名な武家の一つである。源氏(げんじ)と同じく、天皇家の一族であったものが、家臣となったもので、それぞれの天皇の名前をとって、桓武平氏(かんむへいし)、仁明平氏(にんみょうへいし)、文徳平氏(もんとくへいし)などと名のりました。特に有名なのが桓武平氏(かんむへいし)で、平氏というと普通は桓武平氏(かんむへいし)をさしています。

 桓武平氏(かんむへいし)は、桓武天皇(かんむてんのう)の子孫で、高望王(たかもちおう)の時に平(たいら)の姓をいただき、以後、平(たいら)を名のるようになりました。平忠盛(たいらのただもり)が鳥羽上皇(とばじょうこう)の信頼を受けて、しだいに勢力を大きくしていきました。

 忠盛(ただもり)の子の平清盛(たいらのきよもり)が保元の乱(ほうげんのらん)、平治の乱(へいじのらん)に勝利して、平氏が最も栄える時期をむかえます。
 
 「平氏にあらずんば、人にあらず」
   (平氏でない者は人ではない)
とさえ言われ、平氏は全国66か国のうち、半数以上の国を支配しました。また、殿上人(てんじょうびと)には平氏から30人以上が名をつらねるようになりました。平清盛(たいらのきよもり)の権力は、天皇や藤原氏をしのぐようになったのです。

 しかし、優秀と言われ、父の清盛(きよもり)を助けて政治を行っていた息子の重盛(しげもり)が病死すると、しだいに好き勝手な政治をする平氏への反発が強まり、後をついだもう一人の息子の宗盛(むねもり)のときに、平氏は滅びました。
 
【平氏の政治について】

                                  

 
平清盛(たいらのきよもり)が中心に行った政治である。
平清盛(たいらのきよもり)が1167年に武士としては初めて太政大臣(だいじょうだいじん)になり、政治の権力をにぎった。また、清盛(きよもり)は娘の徳子(とくこ)の生んだ安徳天皇(あんとくてんのう)を天皇にし、天皇の親せきとなって政治を思うがままに行った。

 武士であるはずの清盛(きよもり)の行った政治は藤原氏をまねた
貴族政治(きぞくせいじ)であり、武士の期待にそった政治ではなかったため、平氏への反感が大きくなる原因となった。

 清盛(きよもり)がおこなった政治の最大の功績(こうせき)は、
日宋貿易(にっそうぼうえき)をおこなったことであろう。大輪田泊(おおわだのとまり 今の神戸港)をなおし、中国の宋(そう)の国との貿易を行った。宋(そう)から宋銭(そうせん)というお金が伝わり、日本の経済がさかんになった。









宋からの輸入品 宋への輸出品
絹織物
宋銭(そうせん)
陶磁器(とうじき)
薬品
刀や剣
漆器(しっき)
扇(おうぎ)

〈 平氏の系図 〉