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一揆(いっき)について





歴史で知りたいテーマのいちらん


 室町幕府(むろまちばくふ)の支配力は3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)の死後、めだって弱くなった。室町幕府(むろまちばくふ)の重要な役職である関東管領(かんとうかんれい)が室町幕府(むろまちばくふ)に反抗したり、力の強い守護大名(しゅごだいみょう)が室町幕府(むろまちばくふ)を思い通りに動かしたりした。
 
 また、守護大名(しゅごだいみょう)の争いや流行病、米の不作、物の値段の上昇などで世の中の状況は不安定になり、地獄(じごく)のような有様になっていた。人々の生活はとても苦しく、その日の食事にも困る有様であった。そのため、人々は、自分たちの生活を守るために、目的や要求を実現させようと力をあわせて行動するようになった。これを
一揆(いっき)という。特に、この室町時代の一揆(いっき)のことを土一揆(どいっき)という。

 土一揆(どいっき)には、その目的や形態から、一向一揆(いっこういっき)、国一揆(くにいっき)などがある。

【室町幕府(むろまちばくふ)のおとろえ】
【土一揆(どいっき)】

 この時代の一揆(いっき)は、を耕す(たがやす)農民が主な力になっていたため、一揆(どいっき)と呼ばれるようになった。このころの農民の生活は苦しいものであった。「人民の多く死亡、骸(むくろ 死体のこと)諸国に充満(じゅうまん)す。」と言う記録が残っている。土一揆(どいっき)がおこったのも、農民たちが生きることさえもたいへんなせっぱつまった状態においやられたためであった。

1〜3回
4〜19回
20回以上
しょうちょうのどいっき
かけつのどいっき
はりまのくにいっき
やましろのくにいっき
  主な土一揆

● 正長の土一揆(しょうちょうのどいっき) 
 
1428年に山城(やましろ 京都府)でおこった土一揆(どいっき)。各地でおこった土一揆(どいっき)の始まりと考えられている。京都周辺の農民や市民が土倉(どそう)や酒屋をおそって、借りたお金の証文(しょうもん)などを焼いた。


● 嘉吉の土一揆(かきつのどいっき) 
  1441年に京都周辺の農民が徳政を求めて京都市内になだれ込んだ一揆(いっき)。土倉(どそう)や酒屋がおそわれ、京都の市民は食料をたたれ、苦しんだ。この時に、守護大名の武士などは、この一揆(いっき)を利用して、土倉(どそう)をおそい、お金などをかすめ取った。

【一向一揆(いっこういっき)】

 一向宗(いっこうしゅう)とは、浄土真宗(じょうどしんしゅう)のことである。本願寺派(ほんがんじは)の法主(ほうしゅ)の蓮如(れんにょ)が北陸地方に教えを広めて以来、農民たちに広く信仰(しんこう)された。

 加賀(かが 石川県)の一向宗(いっこうしゅう)は、1488年に守護の富樫政親(とがしまさちか)を殺害し、一向宗(いっこうしゅう)による話合いでの国の支配が実現した。これから約1世紀の間、加賀(かが)では、一向宗(いっこうしゅう)による自治が行われた。

 これ以後も、一向宗(いっこうしゅう)を信じる農民たちが、税金の免除(めんじょ)や安くさせる要求を通すために、武器を持って一向一揆(いっこういっき)をおこし、戦国大名を苦しめた。 



 国一揆(くにいっき)とは、国人(こくじん)と呼ばれる武士たちが、自分の領地を守るために守護大名(しゅごだいみょう)と争った一揆(いっき)のことである。

● 山城の国一揆(やましろのくにいっき)
 
応仁の乱(おうにんのらん)の以後も、山城(やましろ 京都府)の国では畠山氏(はたけやまし)が2つに分かれて合戦をくり返していた。田畑や家を焼かれて困った農民は国人(こくじん)である武士と協力して、1485年に一揆(いっき)をおこし、畠山(はたけやま)の両軍を相手に戦い抜くと宣言した。

 @ 畠山(はたけやま)の両軍とも山城国から出ていくこと
 A 神社の領地などは持ち主に返すこと
 B 新しい関所(せきしょ)は取りはらうこと

 この3つの要求をし、畠山(はたけやま)の両軍は山城国(やましろのくに)から出ていくことになった。それ以後、8年間、国人36人による話合いで山城国(やましろのくに)の自治が行われた。

【国一揆(くにいっき)】