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 江戸時代の中ごろになると、農民の中にも豊かな農民と貧しい農民との差が激しくなってきた。ききんなどで貧しくなった農民の中には土地を売ったり、自分の家族(特に娘)を売ったりして農業で生活できない農民が増えてきた。

 これらの農民たちは江戸や大坂などの都市に流れこむことになり、農村の人口が大きく減ることになった。土地が荒れ果て、年貢(ねんぐ)の収入も減ることとになり、江戸幕府も困りはてていた。

 そこで、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、江戸や大坂などの都市で生活している農村出身者を農村にかえし、でかせぎを制限した。このようにして、農民を再び、土地にしばりつけた。その上で代官や村役人による農村の支配体制を固めた。



寛政(かんせい)の改革について







歴史で知りたいテーマのいちらん

【寛政(かんせい)の改革とは…】
付書院

 寛政(かんせい)の改革とは、11代将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)の老中(ろうじゅう)であった松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った江戸幕府の政治の立て直しである。松平定信(まつだいらさだのぶ)は、江戸幕府(えどばくふ)の政治を立て直すために、支配体制の強化を行った。

【具体的な改革の内容】
 @ 
享保(きょうほう)の改革を見習った質素倹約(しっそけんやく)を進める。
 A でかせぎ農民を農村に帰す。
 B ききんにそなえて、米を蓄えさせる。
               → 
囲米の制(かこいまいのせい)
 C 
朱子学(しゅしがく)以外の学問の講義を禁止する。
               → 
寛政異学(かんせいいがく)の禁
 D 
旗本(はたもと)、御家人(ごけにん)の借金を帳消しにさせる法律を出す。
               → 
棄損令(きえんれい)
 

  ※ 質素倹約(しっそけんやく)
      ぜいたくなくらしをせず、お金を使わないように節約すること

【でかせぎ農民を農村にかえす「人返し」について】

ききんにそなえて、米を蓄えさせる。
         
囲米の制(かこいまいのせい)について】


 江戸幕府(えどばくふ)の財政の根本は「米」である。ききんなどで農民が農地をすて、逃げ出すようになっては、米の生産が減り、幕府の収入が減ることになる。そこで、凶作(きょうさく)やききんにそなえて、大名に1万石につき50石の米を倉に蓄えさせた。これを囲い米(かこいまい)という。

 また、江戸の町では町費を節約させ、節約した分の10分の7を積み立てさせる7
分金積立法(しちぶきんつみたてほう)を行い、貧しい人を救ったり、ききんの時の食料確保などにあてさせた。

 また、江戸の治安をよくするために、江戸の浮浪者(ふろうしゃ)を石川島の人足寄場(にんそくよせば)にあつめ、大工(だいく)、建具(てたぐ)、塗師(ぬりし)などの職業をならわせ、適当な職業につかせるようにした。

【朱子学(しゅしがく)以外の学問の講義を禁止する。
          
寛政異学(かんせいいがく)の禁について】


 松平定信(まつだいらさだのぶ)は、風俗(ふうぞく)の乱れを正すために、武士や民衆の考えをとりしまった。1790年に朱子学(しゅしがく)を江戸幕府(えどばくふ)の正式な学問とし、そのほかの学問を異学(いがく)とし、禁止し厳しくとりしまった。これを寛政異学(かんせいいがく)の禁という。

 役人を採用する基準を朱子学(しゅしがく)とし、金や縁故(えんこ)での役人の採用を禁止した。そのため、朱子学を学んでいない者は合格できないという結果になった。これは他の大名にも影響を及ぼした。

 このほかに、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、書物や洋学(ようがく)のとりしまりもおこない、風俗を乱すような書物を出す作者(山東京伝 さんとうきょうでん)などを厳しく罰した。




 朱子学(しゅしがく)とは
   中国の宋(そう)の時代にときに朱熹(しゅき)によって始められた儒学(じゅがく)の一派
   主君への忠誠(ちゅうせい)、両親への親孝行(おやこうこう)が大切であるとした。
   日本では江戸時代の初め、林羅山(はやしらざん)によって大成され、やがて江戸幕府の
   正式な学問とされた。

旗本(はたもと)、御家人(ごけにん)の借金を帳消しにさせる法律を出す。
             
棄損令(きえんれい)について】


 このころになると、世の中は金の世の中になっていた。何をするにもすべて、お金がものをいうようになってきた。そのため、お金の動きを左右する商人の力が強くなり、商人が物のねだんを決めたり、幕府の政治に口を出したりするようになった。武士の中には商人に頭を下げてお金を借り歩く者まであらわれ、身分の秩序も乱れ始めた。

 そのため、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、これら商人の力をおさえ、江戸幕府の権威(けんい)の回復にも力をいれた。

 まず、身分最上位である武士の権威を回復するために、
「棄損令(きけんれい)」をだし、武士の借金を帳消しにさせた。その内容は、
  @ 6年以前の古い借金は返さなくてもよい。
  A 5年いないの新しい借金は利子を年1割2分に下げて返す。
というものである。

 このようにして、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、いくつかの札差し(ふださし 金貸しのこと)をつぶし、身分の上下をはっきりさせ、武士の力を見せつけた。

【寛政の改革(かんせいのかいかく)の成果について】


   白河の  清きに魚も  住みかねて
               もとのにごりの  田沼恋しき

 白河(しらかわ)とは白河藩主である松平定信のこと。松平定信のすみきった政治はかえって生活しにくく、前の時代の田沼意次(たまぬまおきつぐ)の不正が多かったにごった政治のころがなつかしいという意味。松平定信の寛政の改革を批判した歌である。


 松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った寛政の改革(かんせいのかいかく)の成果は、
 
@ 米やお金の収入がやや増え、幕府の財政は一時的に立ち直った。
 A 商人をとりしまり、身分の秩序の正し、乱れた世をひきしめられた。
 B 幕府の政治体制を一時的に引きしめた。

その一方で、
 
@ 幕府の政治に対して、商人が結束して対抗するようになり、商人の力
   がかえって強くなった。
 A 厳しいとりしまりのため、町人や農民の反感がいっそう強まった。











 結果として、松平定信(まつだいらさだのぶ)の寛政の改革(かんせいのかいかく)は、幕府の政治の立て直しにあまり効果を上げることができず、6年間で失敗に終わった。
  

 上のグラフは、松平定信の寛政の改革(かんせいのかいかく)の時期の幕府の財政の様子である。商人を厳しくとりしまったため、金の収入が少しずつ落ちこんでいることがわかる。全体的にききんも起こらなかったため、幕府の財政は安定していることがわかる。