江戸時代の中ごろになると、農民の中にも豊かな農民と貧しい農民との差が激しくなってきた。ききんなどで貧しくなった農民の中には土地を売ったり、自分の家族(特に娘)を売ったりして農業で生活できない農民が増えてきた。
これらの農民たちは江戸や大坂などの都市に流れこむことになり、農村の人口が大きく減ることになった。土地が荒れ果て、年貢(ねんぐ)の収入も減ることとになり、江戸幕府も困りはてていた。
そこで、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、江戸や大坂などの都市で生活している農村出身者を農村にかえし、でかせぎを制限した。このようにして、農民を再び、土地にしばりつけた。その上で代官や村役人による農村の支配体制を固めた。
【でかせぎ農民を農村にかえす「人返し」について】
【ききんにそなえて、米を蓄えさせる。
囲米の制(かこいまいのせい)について】
【朱子学(しゅしがく)以外の学問の講義を禁止する。
寛政異学(かんせいいがく)の禁について】
松平定信(まつだいらさだのぶ)は、風俗(ふうぞく)の乱れを正すために、武士や民衆の考えをとりしまった。1790年に朱子学(しゅしがく)を江戸幕府(えどばくふ)の正式な学問とし、そのほかの学問を異学(いがく)とし、禁止し厳しくとりしまった。これを寛政異学(かんせいいがく)の禁という。
役人を採用する基準を朱子学(しゅしがく)とし、金や縁故(えんこ)での役人の採用を禁止した。そのため、朱子学を学んでいない者は合格できないという結果になった。これは他の大名にも影響を及ぼした。
このほかに、松平定信(まつだいらさだのぶ)は、書物や洋学(ようがく)のとりしまりもおこない、風俗を乱すような書物を出す作者(山東京伝 さんとうきょうでん)などを厳しく罰した。
朱子学(しゅしがく)とは
中国の宋(そう)の時代にときに朱熹(しゅき)によって始められた儒学(じゅがく)の一派
主君への忠誠(ちゅうせい)、両親への親孝行(おやこうこう)が大切であるとした。
日本では江戸時代の初め、林羅山(はやしらざん)によって大成され、やがて江戸幕府の
正式な学問とされた。
【旗本(はたもと)、御家人(ごけにん)の借金を帳消しにさせる法律を出す。
棄損令(きえんれい)について】
【寛政の改革(かんせいのかいかく)の成果について】
白河の 清きに魚も 住みかねて
もとのにごりの 田沼恋しき
白河(しらかわ)とは白河藩主である松平定信のこと。松平定信のすみきった政治はかえって生活しにくく、前の時代の田沼意次(たまぬまおきつぐ)の不正が多かったにごった政治のころがなつかしいという意味。松平定信の寛政の改革を批判した歌である。
上のグラフは、松平定信の寛政の改革(かんせいのかいかく)の時期の幕府の財政の様子である。商人を厳しくとりしまったため、金の収入が少しずつ落ちこんでいることがわかる。全体的にききんも起こらなかったため、幕府の財政は安定していることがわかる。