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遣唐使(けんとうし)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【遣唐使(けんとうし)について】
 中国の唐(とう)帝国におくった使者のこと。
630〜894年にかけて朝廷が唐(とう)帝国におくった。
遣唐使(けんとうし)の目的としては、主に3つあった。 
 
  @ 中国(唐 とう)と友好(ゆうこう)をたもつ。
  A 東アジアや世界の動きを知る。
  B 中国(唐 とう)の進んだ政治制度や文化を吸収し、取り入れる。


 894年に遣唐使(けんとうし)が廃止されるまでに、15回(途中で中止されたこともあり、実際は12回しか出発していない。)行われた。

 遣唐船(けんとうせん)は全長25m、はば10mで帆(ほ)に風を受けて航海をした。遣唐船(けんとうせん)には、正使、副使、水夫、医者、絵師(えし)、祈とう師(きとうし)、留学生(りゅがくせい)、僧などが乗り、1せきの船に120人くらいが乗っていた。遣唐使はふつう4せきで1団を組んでいたため、1回で500人くらいの人が唐(とう)にわたったことになる。

 遣唐使(けんとうし)は夏に日本の難波(なにわ)を出発し、1か月かけて北九州に着く。そして、五島列島(ごとうれっとう)をへて、翌年の正月ごろに唐(とう)の都の長安(ちょうあん)に着く日程であった。

 しかし、当時は航海術(こうかいじゅつ)が未熟(みじゅく)で、風が思うようにふかず1年も待たされたり、南の島に流され現地の民衆に殺されたり、暴風雨(ぼうふうう)で船がしずんだりして、命がけの危険な旅であった。実際、行われた12回のうち、7回で遭難(そうなん 行方不明になること)事故が起こっている。
【唐(とう)にわたった人、唐から来た人】
【阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)】
 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は717年に唐にわたり、そのまま唐に残り、唐の役人になりました。玄宗皇帝(げんそうこうてい)にその才能を認められ、朝衡(ちょうこう)と言う名を与えられ、重用されました。753年に日本に帰ろうと遣唐船(けんとうせん)に乗りましたが、暴風雨にあいベトナムに流され、命からがら唐に逃げ帰りました。その後は唐の役人を続け、詩人の李白(りはく)ともつき合い、日本のことを思いながらも日本に帰ることができませんでした。


【玄ム(げんぼう)】
 玄ム(げんぼう)は717年に唐にわたり、17年間 唐で仏教について学び、多くのお経をもって日本に帰りました。その後は、国の政治の中心人物として活躍(かつやく)し、国分寺(こくぶんじ)の建設案を出したのもこの人物ではないかとされています。後に、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって退けられ、福岡県に流され、そこで死亡しました。 


【吉備真備(きびのまきび)】
 吉備真備(きびのまきび)は717年に唐にわたり、唐で学問を学び日本に帰りました。その後は、国の政治の中心人物となって活躍しました。一時、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって退けられましたが、752年に遣唐副使として再び唐にわたり、やがて右大臣(うだいじん)にまでなりました。


【鑑真(がんじん)】
 唐の僧。遣唐使(けんとうし)としてやってきた日本の僧に進められて、日本に仏教を広めようと決意しました。日本に渡ろうとして2度失敗して目が不自由となりました。754年についに日本に渡り、天皇や多くの僧に戒(かい)を授けました。奈良に唐招提寺(とうしょうだいじ)を開きました。

【遣唐使(けんとうし)の成果】
 唐の優れた政治制度が日本に伝えられただけでなく、世界各地の美術や文化が遣唐使を通じて日本に伝えられた。東大寺の正倉院(しょうそういん)に残された宝物はその一部である。遣唐使の伝えた文化により、聖武天皇(しょうむてんのう)のころに、国際色が豊かで華麗(かれい)な天平文化(てんぴょうぶんか)が花開いた。
 天平文化の特徴(とくちょう)は仏教建築物(ぶっきょうけんちくぶつ)や仏像に多く見られ、東大寺や唐招提寺(とうしょうだいじ)、日光月光菩薩像(にっこうげっこうぼさつぞう)などにあらわれている。

 万葉集(まんようしゅう)に出ている和歌にもあるように…

   あおによし 奈良の都は 咲(さ)く花の 
            におうがごとく 今さかりなり

 奈良の都では天平文化(てんぴょうぶんか)が栄え、花のように咲きほこり、美しくにぎわっているという意味である。遣唐使(けんとうし)は天皇や貴族中心のはなやかな文化を生み出したのである。




 いろいろな影響を日本にもたらした遣唐使(けんとうし)だが、
 894年、菅原道真(すがわらのみちざね)は、
   @唐(とう)から学ぶべき文化や制度がなくなったこと
   A唐(とう)の勢力がおとろえたこと
   B国の財政がきびしくなったこと
   C新羅(しらぎ)との関係が悪くなり、航海が難しくなったこと
などから、遣唐使(けんとうし)を廃止した。
 
遣唐使(けんとうし)の航路