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遣隋使(けんずいし)について







歴史で知りたいテーマのいちらん

【遣隋使(けんずいし)について】
  聖徳太子(しょうとくたいし)が中国の隋(ずい)帝国におくった使者のこと。
607年に小野妹子(おののいもこ)を国使(こくし)として隋(ずい)帝国におくった。
遣隋使(けんずいし)の目的としては、主に3つあった。 
 
  @ 中国(隋 ずい)と同じ立場で外交をすることで、朝鮮半島(ちょうせん
     はんとう)での日本の優勢(ゆうせい)を確立する。
  A 中国(隋 ずい)の皇帝が天皇を認めることで、天皇が蘇我氏(そがし)
     の上にいることを豪族(ごうぞく)たちに認めさせる。
  B 中国(隋 ずい)の進んだ政治制度や文化を吸収し、取り入れる。

【朝鮮半島にあった日本の領地 任那(みまな)】
 このころ、朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、任那(みまな)の4国があった。任那(みまな)は、大和朝廷の支配下にあったと思われ、日本の植民地であった。この任那(みまな)は大和朝廷にとって、中国の文化を取り入れるための玄関(げんかん)として重要な役割を果たしていた。

 562年に新羅(しらぎ)によって、この任那(みまな)がほろぼされると、大和朝廷の大王(おおきみ 天皇のこと)にとっての目標はこの任那(みまな)を取りもどすことになった。

 摂政(せっしょう)になった聖徳太子(しょうとくたいし)も、自分の弟の来目皇子(くめのおうじ)を将軍として、任那(みまな)を取りもどすために軍を出兵したが、来目皇子(くめのおうじ)の病死により失敗に終わった。

 聖徳太子(しょうとくたいし)は、任那(みまな)を取りもどすのは難しいと考え、中国の隋(ずい)帝国の力をかりて、新羅(しらぎ)を圧倒し、外交で任那(みなま)を取りもどそうとした。このことが、遣隋使(けんずいし)をおくった理由の一つとなっている。
【聖徳太子(しょうとくたいし)が隋(ずい)におくった国書】
 【聖徳太子が隋(ずい)の皇帝である煬帝(ようだい)に
                          送った手紙の始めの文章】
 
「日出(い)ずるところの天子、
        書を日没(ぼっ)するところの天子にいたす」

   (太陽ののぼる東の日本の天皇が、太陽がしずむ西の隋の国の
    皇帝に手紙を送るという意味)

※ 日がのぼる…栄える 日がしずむ…おとろえる という意味もある。


  隋(ずい)の皇帝の煬帝(ようだい)はこの無礼な国書をみて、おおい
 に怒(おこ)り、いったんは大和朝廷の使者との面会(めんかい)を断っ
 た。しかし、このころ隋(ずい)は、高句麗(こうくり)との戦争でたいへん
 苦しんでいたため、大和朝廷と友好を結び、高句麗(こうくり)を南と北
 からはさみうちができると考え、大和朝廷の小野妹子(おののいもこ)
 隋の皇帝の煬帝(ようだい)に殺されることなく、面会することができた。
 これは、聖徳太子の外交上のかけひきの勝利とも言える。

【遣隋使(けんずいし)の成果】
 この外交は成功し、高句麗(こうくり)も百済(くだら)も、大和朝廷と仲良くしようとする態度に変わった。高句麗(こうくり)からは、僧の恵慈(えじ)、百済(くだら)からは僧の恵聡(えそう)、観勒(かんろく)などが大和朝廷にわたってきて、仏教やこよみ、天文、地理、音楽、薬学など、当時の最新の文化が伝えられた。

 また、日本からは留学生(りゅうがくせい)の僧旻(そうみん)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が隋(ずい)に留学し、隋(ずい)の政治制度の
中央集権(ちゅうおうしゅうけん)制度や律令(りつりょう)制、税制(ぜいせい)などを学んで日本に伝えた。かれら留学生(りゅうがくせい)が、やがて大化の改新(たいかのかいしん)の原動力となった。

 遣隋使(けんずいし)は、3回送られた。
   @第1回遣隋使 607年 小野妹子(おののいもこ)
   A第2回遣隋使 608年 小野妹子
   B第3回遣隋使 614年 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)

 それから4年後の618年に隋(ずい)はほろび、唐(とう)がおこることになる。