トップページ > 社会の部屋 > 歴史で知りたいテーマ > 南朝と北朝について


南朝(なんちょう)と北朝(ほくちょう)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【建武の新政(けんむのしんせい)の失敗と足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱】

 建武の新政(けんむのしんせい)に不満を持つ武士たちは源氏の一族であり有力な武将である足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとに集まってきた。足利尊氏(あしかがたかうじ)は、ついに後醍醐天皇(ごだいごてんのう)にそむき、反乱をおこした。後醍醐天皇は新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らの力で足利尊氏(あしかがたかうじ)の軍を一度はうち破った。だが、足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州で武士を集め、再びせめよせてくると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都をうばわれ、吉野(よしの 奈良県)にのがれた。

 1336年、足利尊氏(あしかがたかうじ)は新たに京都に光明天皇(こうみょうてんのう)をたてた。そのため、京都に光明天皇(こうみょうてんのう)の朝廷と、吉野に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の朝廷の二つの朝廷ができることになった。京都の朝廷を
北朝、吉野の朝廷を南朝と呼ぶようになった。


 南朝は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の死後、後村上天皇(ごむらかみてんのう)が後をつぎ、その後、長慶天皇(ちょうけいてんのう)と続くことになる。だが、新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、北畠親房(きたばたけちかふさ 北畠顕家の父)などの有力な武将を失い、おとろえていった。

 一方、北朝は、足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の天皇があいつぐことになる。だが、1392年に足利義満(あしかがよしみつ)が、北朝の勢力を背景にして、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)に吉野から京都にもどることを勧めた。京都にもどった後亀山天皇は後小松天皇(ごこまつてんのう)に天皇の位をゆずった。これにより、60年あまりの南北朝の争いはおさまり、南北朝が1つにまとめられることになった。

【南北朝の争いの結果】

〈 南北朝の争いの結果 〉

 @ 武士によって南朝と北朝が統一されたことにとって、天皇・貴族の
  力が地に落ち、室町幕府の力の高まった。
 A 南朝と北朝の争いのため、室町幕府(むろまちばくふ)の全国支配
  がなかなか安定しなかった。地方は半ば室町幕府から独立した国の
  ようになっていった。
 B 地方でも南朝と北朝の争いが度々起こり、地方の国に任命された
  守護が、任命された国を守るために自分の領地としていった。

 
青色:北朝の武将

赤色:南朝の武将