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徳川家康(とくがわいえやす)の天下統一について





歴史で知りたいテーマのいちらん

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後について】
付書院

 豊臣秀吉は、豊臣家による政治のしくみを整え、支えるために、五人の合議制(ごうぎせい)による最高機関をつくった。これが五大老(ごたいろう)である。五大老(ごたいろう)には、有力な大名が選ばれた。徳川家康(とくがわいえやす)、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、前田利家(まえだとしいえ)の5人が選ばれた。

 また、五大老(たいろう)の命令のもと、実際に行政や事務などをおこなう役職として
五奉行(ごぶぎょう)をおいた。五奉行(ごぶぎょう)には、前田玄以(まえだげんい)、浅野長政(あさのながまさ)、増田長盛(ましたながもり)、石田三成(いしだみつなり)、長束正家(なつかまさいえ)が選ばれた。

 豊臣秀吉の死後、政治はこの
五大老・五奉行(ごたいろう・ごぶぎょう)によって行われることになった。だが、実質的には経済力でも軍事力でも圧倒的(あっとうてき)な力をもつ徳川家康中心の政治になっていた。前田利家(まえだとしいえ)の死後、他の大名を統率(とうそつ)するだけの力のある大名は徳川家康しかいなかったこともあるであろう。豊臣秀吉の後継者(こうけいしゃ)は自然に徳川家康とみなされるようになった。

 一方、豊臣家に忠誠(ちゅうせい)をつくす石田三成(いしだみつなり)にとっては、この徳川家康が主人である豊臣家
(このとき、徳川家康は豊臣家の家臣という立場であった。)にとってかわろうとしているように見えた。このため、豊臣家の家臣は親徳川派と反徳川派の二つに対立することになった。この二派の対立が関ヶ原(せきがはら)の戦いをまねくことになる。

【天下分け目の戦い 〜 関ヶ原(せきがはら)の戦い】

 1600年、五大老(ごたいろう)の一人であった上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津(あいづ)で軍備を整え、徳川家康に反抗するような態度をとるようになると、徳川家康は上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討つために上杉討伐(うえすぎとうばつ)に出発した。徳川家康が東に向かったの見とどけると、7月のはじめ、石田三成(いしだみつなり)は、反徳川派の大名を率いて徳川家康を討つために兵をあげた。上杉討伐(うえすぎとうばつ)の途中でこれを知った徳川家康はすぐに兵を西に引き返し、9月15日に関ヶ原(せきがはら)で石田三成の軍と向かい合った。これが関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)である。

〈 関ヶ原の戦いに参加した大名 〉
東 軍
徳川家康側 
西 軍
石田三成側 
中 立
豊臣秀頼 
東  軍 西  軍 
総大将 徳川家康(とくがわいえやす) 毛利輝元(もうりてるもと)
代表 徳川家康(とくがわいえやす) 石田三成(いしだみつなり)
兵 力 7万4千人 8万4千人
主な大名 井伊直政(いいなおまさ)
松平忠吉(まつだいらただよし)
本多忠勝(ほんだただかつ)
加藤清正(かとうきよまさ)
黒田長政(くろだながまさ)
藤堂高虎(とうどうたかとら)
福島政則(ふくしままさのり)
細川忠興(ほそかわただおき)
加藤嘉明(かとうよしあき)
山内一豊(やまのうちかずとよ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
大谷吉継(おおたによしつぐ)
小早川秀秋(こばやかわひであき)
島津義弘(しまづよしひろ)
小西行長(こにしゆきなが)
島左近(しまさこん)
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
毛利秀元(もうりひでもと)
吉川広家(きっかわひろいえ)
長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)
 赤字の大名は西軍から東軍にうらぎる。
   ピンク色の大名は、戦いの間何もしなかった。

 1600年9月15日午前8時ごろに戦いが始まった。午前中は西軍が優勢(ゆうせい)に戦いを進めたが、昼になっても決着がつかなかった。

 いらだった徳川家康はうらぎりを約束していた西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)がなかなかうらぎらなかったため、鉄砲を撃(う)ちかけ、うらぎりをさいそくした。小早川秀秋(こばやかわひであき)はこれにうながされ、今まで味方であった大谷吉継(おおたによしつぐ)の部隊に攻めこみ、大谷吉継(おおたによしつぐ)を戦死させた。横から小早川秀秋(こばやかわひであき)の攻撃(こうげき)をうけた西軍は、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小西行長(こにしゆきなが)の部隊が次々にうち破られた。午後2時ごろには、東軍の各部隊の猛攻(もうこう)を受けた石田三成(いしだみつなり)の部隊も逃げだした。午後4時になると、西軍は大敗し、東軍の大勝利で戦いが終わった。

 石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は後にとらえられ、京都で首を切られた。

 西軍にとって、最大の誤算(ごさん)は豊臣秀頼(とよとみひでより)が西軍に参加しなかったことと、総大将であるはずの毛利輝元(もうりてるもと)が関ヶ原の戦いに参加しなかったことであった。何よりも、徳川家康のしたたかさにあるのかもしれない。関ヶ原の戦いが始まる前から、西軍の内部はすでに切りくずされており、小早川秀秋(こばやかわひであき)のうらぎりの約束、吉川広家(きっかわひろいえ)、毛利秀元(もうりひでもと)の戦い不参加の約束と徳川家康は西軍の大名を自分の味方にしていたのである。

 
【関ヶ原の戦いの結果について】

@ 徳川家康は西軍の大名を罰(ばっ)し、その領地を取り上げた。その石高
 数 (こくだかすう)は660万石におよんだ。

A 取り上げた660万石を東軍の味方の大名に分け与え領地をふやすこと
 で、より一層、徳川家康に恩を感じるようにしむけた。

B Aのときに、江戸の周辺や重要な都市の周辺には徳川家が信頼(しんら
 い) する大名を配置(はいち)し、豊臣家の大名を江戸から遠くはなれた場
 所に配置(はいち)した。

C 徳川家康の領地は300万石におよび大きく勢力をのばし、一方、豊臣秀
 頼(とよとみひでより)の領地は大阪周辺の65万石となり、一大名になりさ
 がった。その勢力は大名の中でも圧倒的(あっとうてき)であり、この時点で
 対抗できる大名はいなくなった。

 大阪には豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子の豊臣秀頼(とよとみひでより)
がいて、徳川家康はいまだ豊臣秀頼(とよとみひでより)の家臣という立場で
あるが、事実上は徳川家康の天下であった。後は、主君の立場の入れかわ
りを、どのようにして豊臣秀頼(とよとみひでより)に認めさせるかであった。

〈 関ヶ原の戦いの東軍、西軍の配置図 〉
西軍
東軍
西軍から東軍へうらぎった
西軍だが何もしなかった
〈 関ヶ原の戦いの様子 〉
↑ 石田三成(いしだみつなり)の陣の付近