東大寺の大仏について
(目的、作られ方、大仏の大きさなど)
【大仏が作られた目的】
このころ、世の中は貴族や僧(そう)の勢力あらそい、伝染病(でんせんびょう)の流行、ひでりによる米の不作(ふさく)などで民衆は苦しみ、いろいろと困(こま)ったことが多かった。 そのため、仏(ほとけ)の大きな力にすがろうとして、巨大(きょだい)な大仏を作った。当時は、大きければ大きいほど、仏(ほとけ)の力が大きくなると考えたらしい。
仏教の中に華厳教(けごんきょう)というものがある。この華厳経(けごんきょう)の中心となる仏(ほとけ)は毘廬舎那(びるしゃな)という仏(ほとけ)である。毘廬舎那(びるしゃな)はかぎりない大きさを持ち、すべての人々を苦しみから救ってくるとされていました。この毘廬舎那(びるしゃな)の高さは約50mとなり、とても作れないが、すわっている形であれば、16mとなるため、すわった大仏が作られた。この大仏を作ることで、仏(ほとけ)が存在することを目に見える形で民衆に示そうとした。
【大仏の特徴(とくちょう)】
● 東大寺の大仏は、世界最大のブロンズ像である。
● 正式名は、廬舎那仏(るしゃなぶつ)である。
● 大仏をおさめた大仏殿は世界最大の木造建築物である。
(大仏殿 … 高さ48m、はば57m)
● 743年に大仏建立の詔(みことのり 天皇の命令のこと)が
出される。
752年に大仏が完成する。
● 1180年(平安時代)と1567年(戦国時代)に焼け落ちている。
● 現在の大仏は1692年(江戸時代)に修理されたものである。
【大仏の大きさ】
【大仏づくりに使った材料とその量】
材 料 |
重 さ |
備 考 |
銅 |
499トン |
4トントラック 約125台分 |
すず |
8.5トン |
4トントラック 約2台分 |
水銀 |
2.5トン |
4トントラック 約0.5台分 |
金 |
440kg |
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炭 |
1194m3 |
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働いた人 |
のべ260万人 |
当時の人口の約40%にあたる
(当時の人口は約700万人) |
【大仏ができるまで】
@ 木で骨組(ほねぐみ)をつくる。
A 骨組(ほねぐみ)にねん土をぬって原型をつくる。
B 原型にさらにねん土をぬって鋳型(いがた)をつくる。
C 原型の表面をすこしけずる。
D けずった分だけ原型と鋳型(いがた)にすき間ができる。
E すき間に銅を8回に分けて流しこむ。
F 鋳型(いがた)をはずして、表面をみがき、金をぬる。
G 大仏が完成する。
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現在の大仏の大きさ |
奈良時代の大仏の大きさ |
座高(ざこう) |
14m98cm |
15m80cm |
顔の大きさ |
5m33cm |
4m73cm |
目の長さ |
1m 2cm |
1m15cm |
鼻のはば |
98cm |
87cm |
口の長さ |
1m33cm |
1m 9cm |
耳の長さ |
2m54cm |
2m51cm |
足の大きさ |
3m74cm |
3m55cm |
手のひらの長さ |
1m48cm |
1m65cm |
中指の長さ |
1m 8cm |
1m48cm |
ひざの厚さ |
2m23cm |
2m 7cm |
小学生(身長135cm)
【大仏づくりの指導者はだれ】
大仏づくりの詔(みことのり 天皇の命令のこと)を出したのは聖武天皇(しょうむてんのう)である。
ただ、実質的に民衆を指示して、大仏づくりの中心となったのは行基(ぎょうき)である。行基(ぎょうき)は大仏づくりのために民衆から多くの寄付(きふ)や働く民衆を集めた。
【大仏づくりの結果】
聖武天皇がめざした仏教中心の国家、仏(ほとけ)の力で民衆を救おうとする理想は思うようにはならなかった。国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、都の建設、大仏の建設などでいっこうに民衆の苦労は軽くならず、かえって、重税や労役(ろうえき)で生活が苦しくなった。民衆は田をすて逃げ出すようになり、田畑があれはてた。大規模な建築で国のお金も不足するようになった。その上、723年に出された三世一身の法(さんぜいっしんのほう)、743年に出された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)により、貴族や豪族(ごうぞく)がもつ土地がふえ、土地と民衆は天皇のものであるという公地公民制(こうちこうみんせい)がくずれた。これ以後、律令政治(りつりょうせいじ)が乱れ、天皇の力が弱くなり、貴族たちが力が強くなっていく。
三世一身の法(さんぜいっしんのほう)
新しく切り開いた土地は、本人、子、孫の3代の間、私有を認める法律
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
新しく切り開いた土地は永久に私有することを認める法律
これにより、貴族や豪族(ごうぞく)の土地がふえ、公地公民制
(こうちこうみんせい)がくずれた。