朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)について
付書院
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下を統一すると、功績(こうせき)にある大名に与える領地(りょうち)が日本国内にはなくなることになった。また、大名の中には自分の領地を広げていきたいという戦国時代(せんごくじだい)の名残(なごり)がまだくすぶっていた。そのため、豊臣秀吉は、朝鮮(ちょうせん)や中国(明)を征服することで、これらの問題を解決しようとする途方(とほう)もない夢を持つようになった。このときの、豊臣秀吉の計画が下のとおりである。
@ 天皇は北京(ペキン)にうつっていただく。
A 北京(ペキン)の近くに朝廷(ちょうてい)の領地(りょうち)をつくる。
B 他の皇族(こうぞく 天皇の一族)を日本の天皇にする。
C 日本と中国(明)の両方に関白(かんぱく)をおく。
D 朝鮮(ちょうせん)の国王は日本に移り住ませる。
E 大名たちには中国(明)に領地(りょうち)を与える。
F 秀吉自身は寧波(ねいは 東シナ海沿岸の港町)に根拠地(こんきょち)をおく。
G インド征服(せいふく)へと向かう。
途方(とほう)もない夢だが、豊臣秀吉自身は、この計画が実現できると考えていた。
【朝鮮出兵(1) 〜 文禄の役(ぶんろくのえき)について】
↑ 日本の武士による漢城
(ソウル)の攻略(こうりゃく)
の様子
豊臣秀吉は朝鮮(ちょうせん)に軍を進めるために、大阪城から九州の名護屋城(なごやじょう)にうつった。1592年3月13日、大名の小西行長(こにしゆきなが)と宗義智(そうよしとも)が1万8000人の兵を率いて海を渡り、釜山(ぷさん)を入った。これにより、文禄の役(ぶんろくのえき)が始まった。
続いて、加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)の軍が朝鮮に入り、日本の軍は釜山(ぷさん)を攻め落としてから19日目には朝鮮の都である漢城(ソウル)を攻め落とした。
漢城(ソウル)を占領(せんりょう)すると、日本軍は勢いにのってさらに北へと軍をすすめ、数ヶ月のうちに、朝鮮の主な都市のほとんどは日本軍によって攻め落とされた。
だが、このころになると、朝鮮の水軍を指揮(しき)した李舜臣(りしゅんしん)のために日本の水軍が負け、朝鮮に武器や食料を運べなくなった。また、朝鮮の各地でも日本軍に対する反乱が起こり、中国(明)の軍も朝鮮を助けにあらわれ、日本はしだいに不利になってきた。1593年には食料不足と病気のため、日本軍は3分の1の兵力をを失うことになった。日本軍はどんどん南に押(お)しもどされ、日本軍が占領(せんりょう)していた漢城(ソウル)を失うころには、中国(明)との間に仲直りの話が持ち上がり、日本軍は朝鮮から引きあげることになった。
【朝鮮出兵(2) 〜 慶長の役(けいちょうのえき)について】
中国(明)の使者が大阪城に仲直りをするためにあらわれたが、豊臣秀吉が望んでいたものとは違っていた。豊臣秀吉は朝鮮の支配を望んでいたのに対し、中国(明)は豊臣秀吉を日本の王にするという、まったく正反対のものであった。そのため、豊臣秀吉はかんかんに怒り(おこり)、再び朝鮮に兵を送り込んだ。
1597年1月に加藤清正(かとうきよまさ)、小西行長(こにしゆきなが)の指揮する日本軍14万人が釜山(ぷさん)に攻めこんだ。これを慶長の役(けいちょうのえき)という。だが、朝鮮の軍は、今回は戦いの準備を整えていたため、日本軍は各地で苦しい戦いを続けることになった。
1598年に豊臣秀吉が、この戦いの最中になくなったため、その遺言(ゆいごん)に従って、朝鮮から日本軍は引きあげることになり、朝鮮との戦いはこれで終わりとなった。
【豊臣秀吉による朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)の結果について】
この朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)の結果、
@長年の朝鮮と日本との友好関係がくずれた。
徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府(えどばくふ)を開き、朝鮮
との仲直りをすることにより、やっと友好関係がもとにもどった。現在で
も、韓国(かんこく)では豊臣秀吉は鬼(おに)と呼ばれているらしい。
A日本でも多くの人の命が失われ、お金がむだに使われた。
B豊臣家の勢力を弱めることになった。
豊臣秀吉の家臣たちが、
戦いで功績をあげて大名になった者と
行政で功績をあげて大名になった者
との2つに別れ対立が深まった。この対立が、やがて関ヶ原の戦いの
原因となり、徳川家康(とくがわいえやす)の天下へとつながる。