源義経は、どうして兄の源頼朝
に追われたのか。
【源義経(みなもとのよしつね)の悲劇(ひげき)の原因】
@ 源頼朝に許可をえずに官職についたこと
1184年の一ノ谷(いちのたに)の戦いに勝利した源義経(みなもとのよしつね)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)・検非違使(けびいし)に任命された。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)には、勢力の強くなりすぎた源頼朝と義経の仲たがいさせ、源氏の勢力を弱めようという考えがあった。源頼朝にはその考えが読めていたが、義経にはその考えを見抜けなかった。
A 平氏一族の娘を妻(つま)にしたこと
源義経(みなもとのよしつね)は、源氏の敵であり、平氏の一族である平時忠(たいらのときただ)の娘を妻(つま)にした。このことは、源頼朝をいっそうおこらせた。
B 独断専行(どくだんせんこう)がすぎたこと
平氏との戦いに勝つためには、ある程度の強引な作戦が必要ではあったのだろう。だが、源義経は功績をひとりじめし、目立ちすぎた。武士は功績によって、ほうびとして土地を与えられる。源義経がめざましい功績をあげるということは、他の武士の功績がなくなってしまい、ほうびをもらえないことになる。これにより、源義経に対する武士たちの反感が高まることになった。
【源頼朝(みなもとのよりとも)に求められていたもの】
源頼朝(みなもとのよりとも)は武士の棟梁(とうりょう)としての素質があるかを、武士たちから厳しい目で見られていた。
そのため、源氏一族(特に源義経)だけを特別扱いするわけにはいかなった。特別扱いをすると、それは平氏一族だけを大切にした平氏の政治と同じになってしまい、武士たちの心が源氏からはなれてしまいかねなかった。また、勝手に朝廷が武士に官職や領地を与えるようになると、武士たちの官職や土地を源頼朝が保証できなくなる恐れがあった。
この時代、武士たちが、源頼朝に求めていたものは、「源氏が栄えることではなく、武士たちの土地を守り、増やすチャンスを用意してくれる」ことであった。
このように考えると、ほうびをひとりじめしかねず、しかも、武士のたちの統制を乱す弟の義経を非情だが切り捨てざるをえなかったのである。
【源義経(みなもとのよしつね)の逃避行(とうひこう)とその最期】
源義経はにせの山伏(やまぶし)にすがたを変え、関所や追っ手をなどをうまくくぐり抜け、東北地方の豪族(ごうぞく)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに落ちのびた。平泉(ひらいずみ)では、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の保護のもと、平穏(へいおん)なくらしをおくっていた。
しかし、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の死とともに、その子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が後をつぐと、状況が悪くなる。1189年に源義経は藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に衣川(ころもがわ)の屋敷(やしき)をおそわれ、自殺した。31才であった。
その後、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は源義経の首を鎌倉(かまくら)に届けるが、源義経をかくまった罪を理由に源頼朝に28万の大軍で攻めこまれ、ほろぼされる。こうして、東北地方も源頼朝によって平定され、これにより全国が統一された。
場 所 |
逃避行(とうひこう)の内容 |
吉野山 |
義経は吉野山にかくれ住んでいたが、
僧兵(そうへい)におそわれる。義経の
部下の佐藤忠信(さとうただのぶ)が
義経の身代わりとなって、義経をにがす。 |
三の口
(みのくち) |
山伏にばけた義経一行を見破るために、
番兵に「通行料をはらえ。」と言われるが、
「山伏は通行料などをはらったためしは
ない。」と弁慶(べんけい)がことわり、
にせの山伏とばれずにすんだ。 |
如意の渡し
(にょい
のわたし) |
山伏にばけていた義経が疑われたため、
その疑いをはらすために、弁慶(べんけい)
が主人の義経を心ならずも打ちのめす。
後で、弁慶(べんけい)は主人の義経に
そのことを泣いてあやまる。 |
直江津
(なおえつ) |
代官が荷物を開くと、そこからは山伏が
持つはずのないくしや鏡が出てきたため、
義経の一行と疑われた。代官はよろいの
入った荷物も開けようとしたため、弁慶
(べんけい)がご神体が入っているといって
うまくごまかした。 |