東北地方の独眼竜(どくがんりゅう) 

  伊達政宗(だて まさむね)
  
● 活やくした時代   1567年〜1636年
                安土桃山(あづちももやま)時代〜江戸時代

● 活やくしたこと

  1567年 米沢城主(よねざわじょうしゅ 山形県)の伊達輝宗(だててるむね)の
         長男 として生まれる。幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」

  1572年 5才のころ、疱瘡(ほうそう 天然痘)にかかり、右目を失う。
     ころ
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         伊達政宗ははずかしがって、しりごみをする少年になった。
         母親からきらわれ、母親は弟の竺丸(じくまる)を城主にしようとする。
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  1584年 伊達政宗が父に代わり米沢城主(よねざわじょうしゅ)になる。

  1585年 父の伊達輝宗が畠山義継(はたけやまよしつぐ)に誘拐(ゆうかい)され、
         人質になる。
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         伊達政宗は父を取りもどそうと畠山義継(はたけやまよしつぐ)を追いかけ、
         父ともども鉄砲をうちかける。
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         畠山義継(はたけやまよしつぐ)が父の伊達輝宗を道づれに自害する。
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         伊達政宗が東北地方で領土を広げ続け、宮城県(みやぎけん)、
         福島県(ふくしまけん)にまたがる東北地方の大大名になる。

  1589年 豊臣秀吉方の大名で会津(あいず)の芦名氏(あしなし)をほろぼす。
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         秀吉方の芦名氏(あしな)をほろぼしたため、豊臣秀吉(とよとみひでよし)
         怒りをおそれ、北条(ほうじょう)討伐(とうばつ)への参加に迷う。
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  1590年 豊臣秀吉の命令でやむなく伊達政宗が小田原(おだわら)の北条(ほうじょう)
         討伐(とうばつ)に向かう。 
        
           【豊臣秀吉との会見】
              豊臣秀吉の怒りをとくために、伊達政宗は白い着物の
             死装束(しにしょうぞく)を着て、豊臣秀吉に会った。
             伊達政宗の死の覚悟の様子と千利休(せんのりきゅう)
             の取りなしで、伊達政宗は死をまぬがれた。
         

  1592年 豊臣秀吉の命令で、伊達政宗が朝鮮に出兵する。(文禄の役 ぶんろくのえき)

  
1600年 関ヶ原(せきがはら)の戦いがおこる。
        
         【関ヶ原(せきがはら)の戦い】
              豊臣秀吉の家臣の石田三成(いしだみつなり)と徳川家康
             との勢力争い 徳川家康が勝利する。
             「天下分け目の戦い」と言われる。

              〈 西 軍 〉  対   〈 東 軍 〉
               石田三成        徳川家康 
               毛利輝元       福島政則
              小早川秀秋      黒田長政
               小西行長       藤堂高虎
        
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         東軍の伊達政宗はこの戦いに直接関係しなかったが、西軍の
         上杉景勝(うえすぎかげかつ)と戦う。
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         徳川家康(とくがわいえやす)が実権をにぎる。

  
1603年 徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、
         江戸幕府を開く。

         伊達政宗がは仙台藩(せんだいはん)62万石の大名になる。

  1613年 伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)をローマ教皇(きょうこう)の
         もとに送る。

  1614年  
大阪冬の陣が始まる。
           徳川家康の江戸幕府と豊臣秀頼(とよとみひでより)との戦い
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         豊臣秀頼は大阪城に立てこもる。
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  1615年 
大阪夏の陣が始まる。
         伊達政宗が鉄砲騎馬隊(てっぽうきばたい)を率いて参加する。
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         豊臣氏がほろびる。

  1636年 病死する。(70才)


● 人 物 評

 伊達政宗は、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光と多くの天下人に仕(つか)えた。もし、伊達政宗があと10年早く生まれていたならば、天下はだれのものになっていたかは分からなかったであろう。それほど、伊達政宗の器量(きりょう)は優れていたのである。だが、天下が徳川氏に定まると、伊達政宗は一大名として徳川氏に仕えるようになる。だが、それは、牙(きば)をぬかれた竜(りゅう)ではなく、牙(きば)をかくした竜(りゅう)である。徳川氏からあなどられず、かといって恐れられず。伊達政宗は徳川氏にとって、そのような存在となった。ある意味において、戦争の時代から平和の時代への道しるべを作った人物といえるであろう。



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