後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に忠誠(ちゅうせい)をつくした知将

  楠木正成 (くすのきまさしげ)
● 活やくした時代   ?年〜1336年
                  鎌倉時代〜

● 活やくしたこと

  1331年 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が元弘の乱(げんこうのらん)をおこす。
         
          【元弘の乱(げんこうのらん)】

            後醍醐天皇は、貴族たちと鎌倉幕府(かまくらばくふ)をつぶす
           計画を立てたが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗する。後醍醐
           天皇は笠置山(かさぎやま 奈良県)にのがれ、立てこもる。
           後醍醐天皇は、「童子(どうじ)に木の南の下につくられた立派
           な席に案内された」夢を見て、「木+南→楠」で楠(くすのき)を
           たよれと言う意味だと考え、楠木正成を呼び出したという。楠木
           正成は、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府軍と戦い、赤坂城(あか
           さかじょう)に立てこもり、鎌倉幕府軍を苦しめた。
           しかし、鎌倉幕府軍は20万以上で笠置山を攻撃したため、
           後醍醐天皇は敗れた。
         

  1332年 後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(おきのしま 島根県)に流される。
        
           その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)から抜け出し、
          名和長年(なわながとし)、楠木正成(くすのきまさしげ)など
          とともに倒幕(とうばく)をおこす。
          楠木正成は、千早城(ちはやじょう)に1000人で立てこもった。
          鎌倉幕府軍の大軍を相手に100日以上も立てこもり、幕府軍
          を苦しめた。
           その間に、鎌倉幕府軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)
          新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府をうらぎり、逆に鎌倉幕府
          を攻撃する。
        

  
1333年 鎌倉幕府が滅びる。

  1334年 後醍醐天皇が
建武の新政(けんむのしんせい)を始める。
        
         【建武の新政(けんむのしんせい)】

           後醍醐天皇が行った天皇中心の政治。
          貴族や寺院の利益を考えた政治。
          武士の不満が高まることになる。
             ↓
        

  1335年 足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇にそむき、反乱をおこす。
              ↓
         新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、
         北畠顕家(きたばたけあきいえ)の活躍で、足利尊氏をやぶる。
              ↓
         九州で戦力をととのえた足利尊氏に再び京都に攻めこまれる。
              ↓
         楠木正成は足利尊氏と和平(わへい 仲直りをすること)をするように
         後醍醐天皇に進言するが、聞き入れられなかった。
              ↓
         楠木正成は800人の兵で足利尊氏の20万の兵と戦う。
              ↓                (湊川の戦い みなとがわ)
         何度も足利尊氏の軍に突撃(とつげき)をするが、
         兵を73人にまでへらされ、自害する
 
● 人 物 評

  歴史上で楠木正成は天皇に忠誠(ちゅうせい)をつくした正義の武将とされる。一方で、足利尊氏(あしかがたかうじ)は天皇に反乱をおこした逆賊(ぎゃくぞく)とされた。だが、楠木正成の考え方は足利尊氏に近いものがあった。知将(ちしょう)である楠木正成は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の建武の新政(けんむのしんせい)がいずれ武士によってつぶされることは予想できていたと考えられる。そのため、楠木正成は後醍醐天皇に、武士の中心人物である足利尊氏の意見もとり入れるようにと、たびたび忠告をしている。結局のところ、楠木正成は自分を見出してくれた後醍醐天皇をうらぎることができなった。楠木正成は天皇には忠実であったが、歴史の流れには忠実ではなかったといえるだろう。



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