建武の新政(けんむのしんせい)を行った天皇

  後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
  
● 活やくした時代   1288年〜1339年
                鎌倉時代〜室町時代

● 活やくしたこと

  1288年 後宇多天皇(ごうだてんのう)の第2皇子として生まれる。

  1318年 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が即位(そくい)して天皇になる。
         父の後宇多天皇が上皇(じょうこう)となり、院政(いんせい)を始める。

  1321年 父の後宇多上皇が院政をやめる。
            ↓
         後醍醐天皇が直接政治を始める。

  1324年 後醍醐天皇が正中の変(しょうちゅうのへん)をおこす。
       
          【正中の変(しょうちゅうのへん)】

             後醍醐天皇は頭がよく、統率力があったため、朝廷の
            貴族の間から朝廷の権力を取りもどしてくれると期待された。
            後醍醐天皇は、貴族たちと鎌倉幕府(かまくらばくふ)をつぶ
            す計画を立てたが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗する。後
            醍醐天皇は鎌倉幕府の追求をのがれるが、計画に参加した貴
            族は罰(ばっ)せられた。
       

  
1331年 後醍醐天皇が元弘の乱(げんこうのらん)をおこす。
       
         【元弘の乱(げんこうのらん)】

            後醍醐天皇は、再び貴族たちと鎌倉幕府(かまくらばくふ)を
           つぶす計画を立てたが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗する。
           後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま 奈良県)にのがれ、立てこもる。
           鎌倉幕府軍は20万以上で笠置山を攻撃したため、後醍醐天皇は
           敗れる。
       

  1332年 後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(おきのしま 島根県)に流される。
       
           その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)から抜け出し、
          名和長年(なわながとし)、楠木正成(くすのきまさしげ)など
          とともに倒幕(とうばく)をおこす。鎌倉幕府軍の足利尊氏(あし
          かがたかうじ)新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府をうら
          ぎり、逆に鎌倉幕府を攻撃する。
      

  
1333年 鎌倉幕府が滅びる。

  1334年 後醍醐天皇が
建武の新政(けんむのしんせい)を始める。
       
         【建武の新政(けんむのしんせい)】

            後醍醐天皇が行った天皇中心の政治。
           貴族や寺院の利益を考えた政治。
           武士の不満が高まることになる。
      
              ↓
  1335年 足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇にそむき、反乱をおこす。
              ↓
         新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、
         北畠顕家(きたばたけあきいえ)の活躍で、足利尊氏をやぶる。
              ↓
         九州で戦力をととのえた足利尊氏に再び京都に攻めこまれ、
         今度は後醍醐天皇軍がやぶれる。
              ↓
         後醍醐天皇が京都から比叡山(ひえいざん)にのがれる。
              ↓
         後醍醐天皇が足利尊氏に降伏(こうふく)し、京都にもどる。
              ↓

  1336年 足利尊氏が京都で光明天皇(こうみょうてんのう)を天皇にする。(北朝)
         捕らえられていた後醍醐天皇は、吉野(よしの 奈良県)にのがれる。
(南朝)

  
1338年 足利尊氏が光明天皇に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される。
         足利尊氏が京都に
室町幕府(むろまちばくふ)をひらく。

  1339年 吉野で病死(52才)


● 人 物 評

 後醍醐天皇は確かに統率力のある天皇だったのかもしれない。だが、天皇中心の政治にあこがれ、もどそうとする政治のあり方は時代錯誤(じだいさくご)と言うほかない。固有の戦力をもたない天皇や貴族が再び政治の中心になることなどありえなかったのである。戦い勝つには戦力が必要であり、戦うのは武士である。貴族や天皇が直接戦うわけではない。また、鎌倉幕府の誕生によって、武士たちは自分の力に目覚めており、何かあれば自分たちが武力にうったえれば、武力のない貴族や天皇は何もできないことに気がついていたからである。後醍醐天皇は自分の理想通りの政治を始めたのだろうが、この政治は始めから武士によって、つぶされる運命が決められていたといえるだろう。

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