鎌倉幕府をほろぼした武将

  新田義貞 (にった よしさだ)
  
● 活やくした時代   1301年〜1338年
                鎌倉時代

● 活やくしたこと

  1301年 新田朝氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ 群馬県)で生まれる。
        
           新田氏(にったし)は、源義家(みなもとのよしいえ)の血を受け
          つぐ武家の名門であったが、同じ親せきにあたる足利氏(あしか
          がし)よりも低く見られていたため、鎌倉幕府に不満を持っていた。
        

  1331年 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が元弘の乱(げんこうのらん)をおこす。
        
          【元弘の乱(げんこうのらん)】

            後醍醐天皇は、貴族たちと鎌倉幕府(かまくらばくふ)をつぶす
          計画を立てたが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗する。
          後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま 奈良県)にのがれ、立てこもる。
          新田義貞は、鎌倉幕府軍として、楠木正成(くすのきまさしげ)の
          立てこもった千早城(ちはやじょう)の攻撃に加わる。
          鎌倉幕府軍は20万以上で笠置山を攻撃したため、後醍醐天皇
          は敗れる。
        

  1332年 後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(おきのしま 島根県)に流される。
        
           その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)から抜け出し、
          名和長年(なわながとし)、楠木正成(くすのきまさしげ)など
          とともに倒幕(とうばく)をおこす。鎌倉幕府軍の足利尊氏(あし
          かがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府をうら
          ぎり、逆に鎌倉幕府を攻撃する。
           鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、海岸ぞいから攻める
          ことを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかった。
          そこで、新田義貞が、稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海岸で
          海神に剣をささげると、みるみる潮が引いて鎌倉へと続く砂浜
          が広がり、鎌倉に突入できたという。これにより、新田義貞は、
          執権(しっけん)の北条氏を滅ぼすことができたという。
        

  
1333年 新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす。

  1334年 後醍醐天皇が
建武の新政(けんむのしんせい)を始める。
         新田義貞が、武者所(むしゃどころ)の頭人(とうにん 責任者のこと)になる。
              ↓
         新田義貞と親せきの足利尊氏(あしかがたかうじ)との対立が深まる。
        
         【建武の新政(けんむのしんせい)】

          後醍醐天皇が行った天皇中心の政治。  
          貴族や寺院の利益を考えた政治。
          武士の不満が高まることになる。
        
              ↓
  1335年 足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇にそむき、反乱をおこす。
              ↓
         新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、
         北畠顕家(きたばたけあきいえ)の活躍で、足利尊氏をやぶる。
              ↓
         九州で戦力をととのえた足利尊氏に再び京都に攻めこまれる。
         新田義貞は海と陸から足利尊氏にはさみ討ちにされ、やぶれる。
              ↓
  1336年 新田義貞は北陸にのがれる。
              ↓
  1337年 新田義貞は北陸で戦力を整えようとするが失敗し、足利軍に攻められ
         金崎城(かねがさきじょう) に立てこもる。
         3か月後、金崎城が落ち、新田義貞は逃げのびる。
              ↓
  1338年 越前(えちぜん 福井県)の灯明寺畷(とうみょうじなわて)で斯波高経
         (しばたかつね)に攻められ、新田義貞が自害する。(38才)


● 人 物 評

  新田義貞にとって、足利尊氏(あしかがたかうじ)はライバルであった。新田氏は足利氏とともに源氏の一族であったが、足利氏のほうが常に上に見られてきた。武士たちも足利氏を武士の中心人物と見ていた。同じ親せきの新田義貞にとっては屈辱(くつじょく)であったに違いない。新田義貞は、後醍醐天皇の側にたち足利尊氏と戦うことになるが、これはただ単に足利尊氏の下にはなりたくないと言うライバル心からだけではなかったのか? おそらく、新田義貞も後醍醐天皇の建武の新政にはあまり賛成してはいなかったと考えられる。もし、足利尊氏がこの時代にいなかったならば、新田義貞が足利尊氏と同じことをしていたのではないだうろうか?



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