星羅棋布





花の宵、月曇り

鈴蘭    【1/2】 



「なんだ貴様は?」
 切口上で誰何してきたのは簡易な服装、髪もざんばらと言っていいほどなりふり構わない格好の少年だった。
 横柄な態度と口調。ただ、その立ち居振る舞いは堂にいったもので不思議と少年の全てと調和していた。面喰らうばかりの東雲を睨みつけ、さらに言い募る。
「人が訊ねているのに黙りとはいい度胸だな。それとも、口がきけないのか」
 己と同年齢ほどと目される相手に見下ろされることより、その理不尽な物言いに東雲は眉を潜めた。
「礼儀も知らぬ輩に名乗る名などないよ」
 言ってしまった後で、そんな返答している自分自身に東雲は驚いていた。



 その些か険悪な出会いの少し前、東雲は己の庵でぼん やりと時を過ごしていた。
 机上には読みかけの巻物が開かれており、端眼には熱心そうに映ることだろう。だが、それはただ単に眺めているだけのこと。目線は字面を辿りながら、実際には一文字も彼の頭には入っていなかった。もうしまいにしてしまおうかと思いながら、何かをしている振りでもした方が気が紛れるような気がしてやめられない。この時期はいつもそうだった……。
 いつの頃からか、東雲は酷く心許ないような言い知れぬ不安の波動に身体を、心を締め付けられる感覚を憶えていた。身体が変調を訴えているわけではなく、心の奥から何かの警告のように沁み出している。そして、起こり始めた時と同様にいつの間にか潮が引くようにこの感覚は消えてしまう。だから東雲はそれを誰にも話したことがない。時が立てば過ぎる。それに、おそらくどれほどの薬湯を飲んだとて収まるものではないのだと本能的に理解していた。
 ただその時を過ぎるのを待つというのも、どうしようもなく気が鬱ぐ。それも仕方の無いことだった。

『お勉強ですか』
『妙香…花仙さま?』
 そんな様の時にかけられた声、さらに呼びかけの主の姿を認めて東雲は眼を丸くした。
 兄の五百重に師事していたという妙香花仙の薫は、神扇山を訪れた際には必ず師の元への挨拶を欠かさない。だが、その弟であるとはいえお役目もない東雲には、直接この貴人との面識はないに等しい。かの地を統べる永輪樹帝の八番目の皇子の立場でも、儀式に参列したことは希で兄を介しての目通りで見知っているという程度なのだ。親しく言葉をかけられるなど初めてのこと。東雲が戸惑うのも無理からぬことであった。
『兄上さまはおいでになりませんでしたか?』
『はい。ご挨拶は先ほど……。私は東雲さまにお目通りにお伺いいたしました』
『私に………ですか?』
 訝しむ彼に薫は優雅に頷いた。
『はい、本日は華恭苑へのご招待に参りました。錦花仙帝さまも是非おいでいただきたいと申しております』
『……はい。ですが――』
 返答に窮している東雲の気持ちをほぐすかのように薫は柔らかに微笑みを見せた。
『私のお預かりしている御子さまが東雲さまと同じお年なのです。きっと良いお遊び相手になれますよ』
 堅苦しい公務ではないのだ、と安心させるかのように言い添えられて東雲は自然に頷いていた。



 そうして招かれた華恭苑は本当に美しかった。同じ天界でありながら、東雲が属している神扇山とは様々に違っている。厳かでありながら華やいでいる。何を見ても物珍しい、通された奥の殿で待っている間でさえ気の滅入りも忘れるほどだった。
 その良い気分のところへ突如の乱暴な問いかけであった。『大人しい末の皇子』と言われて育ち、自らもその性質を信じて疑わなかった東雲が言い返していた。
 その彼を上から下まで値踏みするようにねめつけ、少年は鼻で笑った。
「オレに名乗れとは良い度胸だ、さすがは永帝の皇子だな」
「……………」
 東雲が黙しているのを意に介さず、少年は卓に置かれている果実を取り無造作にかじった。
「薫に何を言われてきたか知らんがこちらには用はない、さっさと帰れ」
 素気なく言い放たれ、東雲は少なからず衝撃を受けた。今まで誰一人彼に向かってこんな口を利いた者もいなければ、理由もなく非難を受けた事もなかったのだ。
「――私は妙香花仙さまのお招きできたのだ。君にとやかく言われるおぼえはない」
 今まで覚えたこともない純粋な憤りがわき起こる。庇護してくれる兄達も、供の者もいない。ここには東雲ただ一人なのだ。ここで、引き下がってはそれこそ永帝の皇子として面目が立たない。瞬時にそんな思考が巡っていた。
「生意気な! オレが帰れと言っているのだ、四の五の言わずに……チッ、見つかったか…」
 少年は苦々しげに舌打ちをした。
「蕾さま、またそのようなお姿で――お部屋でお待ち下さいとあれほどお願いいたしましたのに」
 困惑と嘆きの一緒になった声音が背後から響いた。あくまで優雅に、けれど心持ちあわてふためいた様子で駆けつけた妙香花仙 薫が少年をたしなめ、深々と東雲に頭を垂れた。
「申し訳ありません東雲さま。すっかりお待たせ致しました。こちらが、先ほどお話いたしました蕾さまでございます」
 少年から果実を取り返し、薫はくるりと少年を彼の前に向き合わせた。ふん、と蕾が鼻を鳴らす。
「では、錦花仙帝さまの……」
 得心がいき、同時に新たな驚きに東雲の声は自然と尻すぼみになる。お見掛けしたことのある母君の錦花仙帝さまとは、雰囲気の違いばかりが際立って受け取れた。
「母上は関係ない。オレはオレ、ただの蕾だ」
 宣言するように言い切る彼の得意気な様に、東雲は思わず吹き出してしまった。まさにやんちゃという言葉が相応しく、本当に何から何まで自分の周囲にはいない種類の人物だった。
「貴様、何を笑う!」
 上手く隠したはずの笑みを聞き逃さなかった蕾が、頬に朱を上らせて怒鳴りたてた。
「いや、別に……」
 慌てて否定しながら、自分でも顔がひくついているのがわかった。憤りはもう感じない。蕾の言動は、何もかもが真っ直ぐで、そこには悪意の欠片も介在していないからだろう。
「ならその笑いをやめい! だいたい貴様、偉そうなことを言いおったわりには……薫、何を笑っておる」
 止めるどころか微笑ましく彼等を見守っている妙香花仙の様子に、蕾が怪訝そうに片眉をつり上げる。
「私、嬉しゅうございます。もうそのように仲良くなられて……やはりお年が近いせいでございましょうねぇ」
「なに?!」
「え――?」
 両手を併せて喜びに浸る薫に当の二人は同時に? を発した。
 婉曲な嫌味であろうか、と首を捻った東雲だが……そのような気配が感じられない。
「妙香花仙人さまは……本心からおっしゃられているのかい?」
「構うな、あやつのは天然だ――」
 問いつめられていたことも忘れて発した東雲の問いに、蕾は憮然とした面持ちで答えた。そういう薫の性質を呆れつつも美徳と思っているような微妙な心情らしい。
「お話が弾んでおりますところでございますが……蕾さまお召し物を替えてまいりましょう。そのお姿では失礼でございます」
 上機嫌の薫が蕾の背を押した。
「弾んでなどおらん! それにあんなピラピラした格好が出来るか!オレはこれで良い」
「そうおっしゃらずに、ささ。では東雲さま、もう少々お待ち下さい。すぐ参りますので……」
 彼が返答する間もあらばこそ、二人は退出した。突然の乱入してきたのと同じように唐突に去って行く。まるで嵐のようだと、東雲はため息をついた。そういえば花の皇子は玉風大帝さまの御子でもあると聞いたことがある。妙に得心がいった彼はクスリとほくそ笑んだ。



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